かへでぱへ

思ったことなどです

重み

朝だ。

冷え切ったまぶたを少し持ち上げると、まだ部屋は薄暗くて、そして思い出した、今日は月曜だ。

胸がギュッとなって、涙が出そうになる。どうして私、こんな生活をしているのだろう。だるくて重い身体は、死体みたいに横たわったままで、頭だけがネガティブな方向へ回転していく。まるで世界に自分しかいないような感じがして、心細い。「ああ、ひとりぼっちでこの気持ちと闘わなければならないのか」的なことを思って、また胸がギュッとなった。私はまぶたを閉じて、夢に戻るための入り口を探す。

再び濁ってきた意識の中で、今日がどんな日になるか考える、朝イチの会議のこと、苦手な人との約束のこと、(夢の中の私が地下鉄を乗り間違えた)、終わりが見えない作業のこと、(間違えたまま発車した)、今日休んだらダメかな、(地下鉄は止まらず走り続ける)、(腕時計を見る、あと1分で始業時間だ)、また胸がギュッとなる、(涙がじわじわ出てくる、ドアをバンバン叩いても、地下鉄は止まらない、どうしよう、遅刻しちゃう、会議に間に合わない、会社がどんどん遠ざかっていく、また腕時計を見たら、もうお昼になっている、会議に間に合わなかったんだ!どうしよう!

 

ーーー!心臓がバクバクする。そしてすぐ、呼吸の仕方を思い出した。部屋は薄暗い。月曜の朝だ。枕が涙で濡れている。汗が冷えて寒い。

私は身体を起こして、時計を確認した。6時38分。布団から出て、寒さに震えながらトイレに向かう。温かい尿を蓄えて、重たくなった膀胱が、ぱんぱんに膨らんで、はち切れんばかりだった。

書くことは怖いよ。

「書くことは怖いよ。

書くとさ、書いた人間の中身が、現実の世界に出てきちまうんだ。ああこいつ、こんなこと思ってたんだ、とか、こんなこと経験したんだろうな、とか、書いたものから、書き手の内面にあったリアルが浮かび上がってきちまうんだ。それが、書くっていうことの怖さなんだ。

現実に生きていない作家はいないだろ?誰しも、現実、この世に生きているんだ。現実にはたくさんの人間がいる。おれの周りには、おれと深く関わっている人間が、たくさんいるんだ。おれが書いたものを見てさ、誰がどんな風に傷つくか、想像するんだ。もしこれを書いたらどうなるだろう、って具合だね。そうするともう、ペンが進まなくなるんだ。怖くてね。

おれは別にさ、日常のど〜〜うでもいいことを書いたりした時のことを言っているんじゃないぜ。そんなものは、書くって言わないね。おれの言う、書くってのは、もっとこう、自分の内面と向き合って、奥深くにある、形にならないようなものを捕らえて、伝達可能な言葉にして、この世に出すってことなんだ。これが、おれには恐ろしいんだ。

秘密の無い人間はいないだろ?どんな人間だって1つや2つ、墓場まで持っていきたいような秘密があるはずだ。墓場じゃなくたっていい、毎晩、自分の部屋で、こっそりひとりで眺めていたいような秘密だってある。真剣に書くってことはよ、こういうものが、自分の外に漏れちまう体験なんだ。秘密はなんで秘密か、分かるか?秘密は、人を傷つけるから秘密にしてるんだ。それが外に出たら、必ず誰かを傷つけちまう。なぁ、だんだんわかってきてくれたか?

 

あんた、ちょっといい顔になってきたじゃないか。やっと、少しばかり、わかってくれたみたいだ。おれだって、こういう話をすることに、ためらいはあったさ。そして今は、やっぱりやめときゃよかった、と後悔しているんだ。

おれは恥ずかしい。こんな一丁前なことをほざいて。秘密にしておきゃ良かったんだ。おれは恐ろしい。こんなことを言ったら、まるであんたの考えを、否定するみたいだろう。

こんなこと続けていたら、おれのそばには誰もいなくなっちまうんじゃないかって、そう思ったら、もう書けないんだ。

走り書き-生活への飽きと文学的な瞬間-

見ないように見ないようにしてなんとかここまできたのだけれど、やはり目の前から動かないものがある。生活への飽き。

週5で仕事をしている不自由を取り返すかのように、残された2日間で懸命に自由を味わっているんだけれど、それにすら飽きが来ている。まずいなと思っている。焼け石に水という話ではなくて、週5のぬるま湯に週2のぬるま湯を混ぜてるだけみたいな生活になりつつある。週7のぬるま湯だけがある。

自分なりにこれはまずいよなと思っていて、卓球やら読書やら、色々なことに手を出しているんだけれど、根本的な解決にはなっていないような気がしている。何をするにしても、行き止まりのゴールに向かってマラソンするみたいな、持続性のある閉塞を感じる。

 

文学的な瞬間、と僕はよく言うのだけれど、そういうものこそが、この状況を打破するのではないかと思っている。文学的な瞬間っていうのは、まるで文学のような、俗世離れした瞬間のこと。

といっても、それは別にアンビリーバブルな奇跡だけを指してるわけじゃない。SNSでみんなに自慢したくなっちゃうようなキラキラしたエピソードでもない。僕が文学的だなぁと思うのは、人間の本質的な部分に触れた瞬間とか、ぴったりと収まりの良い出来事があったとか、そういうもの。ジーンとか、ゾクゾクとか、心が震えるようなもの。

誰の生活の中にも、この文学的な瞬間っていうのはある。喜劇的であれ悲劇的であれ、こういう文学的な瞬間に立ち会えた時は、心が震える。これによって、持続性のある閉塞から、一時的だとしても、息継ぎできたような気がする。だから文学的な瞬間こそが、生活への飽きに対する打開策なんじゃないかと僕は思ってる。

 

文学的な瞬間は、生活の中から見出して掬い上げてやらないと、気付くことすらできずに過ぎていってしまう。そしてこれを見出す力にも、どうやら個人差があるみたいで、これが低い人もいる。

じゃあ低い人は、持続性の閉塞にどうやって対応しているの?ご安心を。そういう人は持続性の閉塞そのものに気がついていないから。ここまで読んで、「言っている意味がなんとなくわかります」って人は、文学的な瞬間を見出す力がある程度ある人たちなんだと思う。

でも、文学的な瞬間がいつ来るかなんて全然わかんないし、狙って呼び込むこともできない。生活の中の文学的な瞬間っていうのは、コントロールしにくいものなんだと思う。

だから創作というものは意義深いのだと思う。創作は、作品の中に文学的な瞬間を作り上げることができるから。あくまで人工物だし、どこまでいっても慰めにしかならないと、分かってもいるのだけれど。

 

 

おまけ:文学的な瞬間の生まれやすい状況→絶望的な不幸、デートの帰り道、深夜のドライブ(散歩も可)、曜日感覚がなくなった夏休みの昼間、喫煙所、疲労困憊時、など。

 

 

サルトルの嘔吐という本に、「完璧な瞬間」という言葉が出てくる。初めて読んだ時に、この言葉の意味が、なんとなく自分に近いところで了解されているような感じがした。同じようなこと考えてる人、いたのかもしれないって、少し慰められるような感じもした。

日記 190204

仕事、知的な活動をすることも多くて、基本的には満足している。学生時代に学んだことの延長で、ナマの人間を相手に、コミュニケーションを試行錯誤しながら、一喜一憂を繰り返している。

 

職場のおばさんと上司の仲が悪い。おばさんから、上司のことを良く思っていないということを打ち明けられた。おばさんは目に涙を溜めながら、自分が受けたという仕打ちについて語った。

それ(おばさんの打ち明け話)によって、僕の意識に良くないタネが蒔かれた。なんとなく、上司が汚い大人に見えるようになった。それを聞く前と後で、上司が変わったわけじゃないんだけど、なんとなく笑顔を向けて話す気になれなかった。おばさんがなぜいつも、小さな声で、上司ではなく僕に、仕事のやり方を聞いてくるのか、理由を推測してしまうようになった。なにも変わっていないはずなのだけれど、職場の緊張感が増した気がする。

僕はおばさんに対して、かえって冷たく当たるようになった。別に上司の肩を持つわけじゃない。なんとなく仲間に引き込まれるような力を感じているからだ。話を聞いてくれるってことは、あなたも同じ意見なのよね、という心を感じてしまう。

職場、どこかしらに欠陥のある人たちが、精一杯"わたしはマトモな人間ですよ"みたいな顔して、協力している場所なのだ。僕も上司もおばさんも、どっかしら道理から外れたおかしな部分があって、それを見せないように、それと、相手のを見ないように、気を遣ってやってきたのだ。

おばさんが口に出したから全部パーになったのかもしれない。でも、おばさんが口に出しちゃうほど、上司も自分の欠陥を隠せてなかったんだなと思う。そして僕も、なんとなく二人のおかしなところを探して、見つけて、楽しんでるようなところがある。

 

なんか口走る前に有給とろう。

「ミニマリズム:本当に必要なもの 」を見た感想

ネットフリックスで、ドキュメンタリー映画の「ミニマリズム:本当に必要なもの」という作品を見た。

 

僕もミニマリズムには興味があって、理由は、合理的で効率的な選択だと思うからだ。余計なものを持ち歩かず、束縛の少ない身軽な生活というものに憧れるのだ。

 

作品は、主にミニマリズムに肯定的な人達が、それぞれの思想を語るシーンで構成されている。

 

この作品を見て、僕が書きたいと思ったことは2つある。

 

1.「身動きが取れない」感覚

 

一番心に残ったのは、ウォール街のブローカーをしていた男性の話。彼は、とにかくお金のために出世の階段を駆け上り、やっとジュニアパートナーへの昇格を聞いた途端、泣けてきてしまった。

 

理由は、「身動きが取れなくなったことに気がついたから」。「冒険をしたり、旅をしたり。思い描いていた自分の人生が消え去ったことに気がついたからから」だという。

 

僕はこの感覚に強く共感した。社会人になってからの僕は、この感覚のことを「自分の生活や人生が型にはまっていく感覚」として、周囲の人に話している。同じ質のものだと思った。もちろん、彼の場合は超エリートで、昇格によって超ハンパなく忙しくなってしまうということはあるので、「身動きが取れないこと」の強度としては、違うかもしれないけど。やはり同じ質のものだと思う。

 

ホッとした。自分以外にもこういうことを考えてくれている人がいたと思った。

 

長時間労働によって物的豊かさを求めていくライフスタイルに窮屈さを感じる人もいる。頭を空っぽにして働いて、心を殺して働いて、そうして貰った賃金で物を買うだけでは、確実に飽きてしまうと思った。

 

2.「自分に何が必要か」を知ることの難しさ

 

こっちはさらにミニマリズムに寄った話。

 

「良い」と言われているものを、なんでもかんでも手に入れようとするのではなく、自分にとって本当に必要なものなのかしっかり考え、判断すること。これが大事だと思った。

 

ミニマリズムといっても、何もかもを捨てる必要はない。自分の夢やライフスタイルに合わせて、そこに必要なものだけを、身の回りに揃えればいい。それがミニマリズムなのかなと思った。あくまで、自分にとっての、必要最低限なのだ。

 

作中で、女性が「自分のライフスタイルに合わせて必要なものを選んだら、とっても良くなった」という旨のことを言っていた。

 

このシーンで僕は、「それが一番難しいんだよなぁ」と思った。物を捨てたり、買うのを我慢したりするのが難しいわけじゃない。「自分のライフスタイルって何なのか」、それを知ることが何より難しいんだ。それが分かってないから、買うものや捨てるものを選べなくなってるんだ。

 

「自分のライフスタイルって何なのか」。この問いを考えていくと、「自分とは何なのか」みたいなもうすごく根源的なところまで行ってしまう。こんなことは、なかなか分からない。

 

だからこそ、ミニマリズムの実践にあたっては、自分と向き合い続ける必要があるんだろうなと思った。見よう見まねでやったような、乱暴な断捨離だけではダメなのだ。何も考えずに全部捨てたり、人が「良い」というものを何でも欲しがってしまうのは、「自分に必要なもの」が分かってないからだと思う。

 

身体の隅々まで感覚を研ぎ澄ませるように、自分の生活の隅々まで感覚を張り巡らせて、その動線や伸び代などを把握しておくことが、「自分に本当に必要なもの」を知るための第一歩なんだと思う。

 

そしてこのことが、過不足の起きない、理想的なミニマリズムにきっとつながる。はず。

 

 

ちなみに、ミニマリズムから程遠い、物だらけの実家について、3年前に書いた過去の記事はこちらです。 http://hidacaw.hatenablog.com/entry/2015/03/11/005438

 

世界の裏側

街外れの交差点。暗闇に浮かぶ信号。風はしんと止み、冷たい空気が漂う。

一台の車の音が近づいてきた。

 

 

暗い道路だった。私は赤い光をぼんやりと眺めながら、惰性で走る車にブレーキをかけた。ウィンカーを焚くと、等間隔のリズムが、車内を支配した。

 

緑色のランプを確認して、私はゆっくりとアクセルを踏んだ。等間隔のリズムは急に途絶えた。代わりにエンジン音が、車を満たしていく。

 

バックミラーには、どんどん遠くなっていく交差点が見えた。ついさっき、あそこへ私が入ってきて、そしてさっき、あそこから私が出てきたのだ。私以外の誰も、それを知らない。あそこには、誰も居なかったから。

 

林沿いのカーブに入ると、バックミラーの交差点は見えなくなった。月明かりは遮られ、闇は一層深くなった。下りのカーブは、ついスピードが出すぎてしまう。

 

......あの信号は、まだ光っているだろうか。あの交差点は、消えて無くなっては、いないだろうか。どこかへ行ってしまっては、いないだろうか。

 

 

 

 

 

......ああ、いま、世界の中で、私だけ...。

 

 

下りのカーブをようやく抜けて、直線道路に出た。暗い林は後ろへ飛び去り、道路脇には畑が広がった。

 

......私だけが、あの交差点を、知っている。

あの交差点の、在るということを、知っている。

 

私がいなくても、あの交差点は、きっと在るだろう。暗闇の中に、ぽつんと、冷たく、在るだろう。あの信号は、動き続けているだろう。暗闇の中で、赤緑赤を。ただ、赤緑赤を。音もなく。

 

私だけが知っている。赤緑赤、赤緑赤。

 

 

AM02:00:03。

信号は赤から緑へ。

Bルート

仕事をして帰って寝て、起きてまた仕事をして帰って寝る。心のゲージが、少しずつだが確実に、無理のゾーンへとさしかかってきているのを感じる。同じことの繰り返しで、ハリのない生活。この生活はしばらく続きそうで、その先に何かがあるわけでもない。そう考えると、まるで行き止まりに向かってマラソンをしているような気持ちになる。今ので無理のゾーンがまた少し広がった気がする。土曜の朝。憂鬱な思考に耐えかねた私はようやく起き上がった。今日の予定はクリニックへ睡眠薬を貰いに行くことだけ。薄暗い部屋は白い息が出るほど寒い。氷のように冷えた指先が痛い。雪が降っているんじゃないの。カーテンを開いたらのしかかってきた曇天。ダメだ。もう無理だ。

  

お医者さんは私の話なんて聞いてないんだと思う。パソコンばかり見ているから。「それは大変でしたね」って、せめて目を見て言ってくれたらと思う。10分くらい話したあと、薬局でいつもどおりの薬をもらった。曇天の空は相変わらずで、クリニックに入った時から時間が進んでいないような感じがする。道路の脇には汚い雪が寄せられている。

 

毎回毎回、同じ薬を同じ分量だけ出すんだったら、あのお医者さんはいらないんじゃないかと思う。いやそれは私が今安定しているからそう言えるのであって、きっともっと不安定な人や大変な人には、量や種類を調整してもらわなきゃ困るのだ。同じ薬を同じだけ貰い続けている私は、多分、安定しているのだ。私は、普通の人より少し低いところで安定している。死ぬほどつらくはないけど、いつも少しつらい。少しだけマイナスのところに、ずっと心がある。これが普通になってしまって、こうなる前がどうだったかよく思い出せない。やっかいなところに安定してしまった。昔はもっと笑ってた気がする。道ぞいの公園で、子どもたちが溶けかかった雪だるまの頭を滑り台の上から落としていた。叩きつけられて割れる頭。子どもたちがキャーキャーと叫ぶ。

 

まだ帰りたくないと思った。もう用事は無いのだけど。何かしてから帰ったほうがいいんじゃないかと思った。どこかへ寄り道してみたくなったのだ。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。昔はもっと笑ってた気がする。まだ帰りたくない。不思議な予兆に私の胸は静かに踊った。

 

私はくるりと向きを変え、来た道を引き返した。薬の袋は、かばんの内ポケットにしっかりと収まっている。