かへでぱへ

思ったことなどです

いいねの奴隷がトイカメラ風に加工した写真をSNSにアップするうちにその手元で刻一刻と冷めていくカプチーノの気持ち

お店でものを食べる時、出てきた料理をパシャパシャと写真で撮る行為。これは傍から見ると大変卑しい行為として映ります。

 

僕は料理をパシャパシャする派の人間なんですけど、それでも飲食店でパシャパシャしている人を見ると「ウワァ僕もあんな感じなんだなぁ…なんだか卑しいなぁ…」と思います。この記事を読んでいるみなさんも、実は結構なパシャリストだったりするんじゃないですか。

最近はこの行為もだいぶ一般的なものになってきたような気がしますけど、それでもやはり多人数でひとつのものをつつく時など、誰かが「あ、ちょっと待って写真撮るから」とか言うと、食卓の空気がピリッとするのを感じます。このピリピリ感には、「早く食べたい」だとか「冷めてしまう」とかいう気持ちよりも、やはりその行為からにおい立つ"卑しさ"への嫌悪感が、集団内にじんわりと共有された結果であると思います。「いいじゃん撮らなくて…」と周りの人が苦い顔をしても、僕たちパシャリストは撮影をやめることができません。

 

なぜ料理を撮影してしまうか。

それはね、いいねが欲しいんです。

僕たちパシャリストは、同時にいいねの奴隷でもある場合が多いです。撮った写真をSNSにアップする人たちのほとんどはいいねが欲しいんだと考えていいと思います。普通に美味しい料理を食べて満足するのに加えて、パシャリストはさらに、美味しそうな料理の写真に付くいいねからも満足感を得る事ができます。では美味しい料理を食べにきた時、パシャリストはどうするか。彼らはまず美味しそうな料理の撮影をして、それから美味しく料理を頂くのです。これはとても合理的な行為です。一品の料理から最大限の満足感を搾り取る方法です。空腹は最高の調味料なんて言いますが、パシャリストにとっては食べながら眺めるスマホ画面のいいね通知も最高の調味料に成り得るのです。

だからね、さっき書いたように、周りの人たちが苦い顔をしても僕らは撮影をやめられないのです。だって撮影しないだけで、その料理から得られる満足感を取りこぼしちゃう事になるんですから。

 

でもよく考えてみて。インスタグラムのアプリをインストールする前の自分、スマホにする前の自分の外食は、そこまで満足感が低かったっけな?

"ネットちやほや"は人を狂わせる

昨日このブログを開設して、はじめての記事をアップしました。twitterと連携して1万人のフォロワーにむけて記事のリンクを拡散したら、ブログのアクセス数がダダダダダダッと上昇しまして、20分後には200を越えました。

僕はすぐに舞い上がりました。自分の記事がいろんな人から見られているという事で、えもいわれぬ高揚感がありました。いつもの僕のパッとしない日常生活では決して出会う事のないドキドキが、どんどん大きくなっていきました。twitterで自分のツイートが爆発的に伸びていく時のあの感じに似ていました。

昨日の記事に関して言えば、たいして内容があるものをアップしたわけではありません。ただ、日高サンというtwitterアカウントの中の人がブログをはじめて、そのお披露目兼ごあいさつをしたというだけの話です。だからね、僕は別に、気分が高揚して気持ち良くなるほどのすごい事を成し遂げたわけじゃないんです。ちょっと簡単な事をしただけで、アクセス数が上昇し、はてなのトップに載ったり、コメントがついたり、twitterの人たちから「楽しみにしてます!」とか「ぜったい読みます!」とか言われました。ネットでちやほやされた僕は、普段ちやほやされていない事もあって、なんだかとても嬉しくなりました。恐るべし、ネットちやほや。

 

これは"ネットちやほや"においてとくに言える事だと思うのですが、ここでは努力とちやほやが比例しないんです。パッとしない人でも簡単にちやほやされる事ができるんです。もっと言えば、パッとしなければパッとしない人ほど、現実世界では自分に向かないちやほやへの執着が強く、それを簡単に満たしてくれるネットちやほやの泥沼にハマっていくんです。このソースは僕なんですが、他にもネット上にあふれる太ももや鎖骨だけをうつした写真とか、恋愛ポエムおじさんの謎の自撮りとか、全然つまらない人が顔出して喋ってる意味不明なニコ生ツイキャスyoutubeとか、こういうところにもネットちやほやによって狂ってしまった人々が散見されます。

いくらネットでちやほやされても、僕たちの身体は現実の世界にあります。食べて寝てセックスをする生身の身体は現実にしか無いんです。ネットちやほやは所詮、脳味噌の一部を気持ちよくするだけなんです。しかしやはり、どうしようもなく魅力の無い人にでも少ない努力でたくさんの快感を与えてくれるネットちやほやの魔力というのは強いようです。 

 

ネットちやほやの快感は、しばしば生身の身体の存在を忘れさせます。ネット上の自我というのは漫画やゲームのキャラクター設定のように、求めるまま限りなく広がります。ネットちやほやに支配された人間は、ちやほやの獲得だけに動機づけられて動くようになります。すると彼らは、ちやほやを得るため自身をコンテンツ化させ、"空洞化した"自身のネットキャラクターを無限に拡大させていきます。程度の差はあれ、そういう人をみなさんも見た事あると思います。自分がそうだという方もいらっしゃると思います。僕もそうです。現実世界の生身の自分と、空洞化した自分のネットキャラクターとの人格的な乖離はものすごいものだと実感しています。同時に、これはきっといかんものだろうなと直感しています。

 

だからもうこんな承認獲得ゲームはやめませんかと。スマホを窓から投げ捨てて黙々と筋トレでもしませんかと。それでいいじゃないですか。努力もせずに他人からタダ同然でもらったちやほやなんかに振り回されるのはもうやめましょうよ。いいじゃないですか、もう。黙々と筋トレして、努力の末に割れた自分の腹筋を鏡で見て、それでニコニコしましょうよ。ね。

 

@各位  気を確かに

ブログをはじめました

ブログをはじめました。以前にも一度、ブログやろうと思って開設したことはあるのですけど、やっぱtwitterの方がお手軽で、考えなくていいのもあって、記事を書く事はありませんでした。

 

なので今回が、中学生の頃にやっていたホムペ以来はじめての記事投稿となります。ここ数年twitterばかりやっていた僕の脳は現在完全に溶けているようで、まとまった文章を書くというのはまだかなりハードルが高いです。リハビリも兼ねてぼちぼちやっていこうと思います。

 

ブログをはじめた動機は、なんかこれがきっかけでオイシイ事が起きたらいいなと思ったんです。僕の記事を読んだ人と思わぬ所からつながりができたりして、その結果あわよくばなんかオイシイ事が起きたらいいなと思ったんです。例えば、ブログで「お金がないのでお米ください」ってSOS出せば、本当にヤバい時とか誰かに助けてもらえるんじゃないかなって考えたのがこのブログ開設の最初の理由です。

 

やっぱりツイートとかだと文章に内容も無いし、情報がすぐに流れちゃうでしょ。だからまぁ僕の記事に内容があるかどうかは置いといて、とりあえずはまとまった文章をここに投稿して、色んな人に見てもらったり、僕が後で見返したり、そんな風な使い方もしたいなと思っています。

 

こういう事をした経験があまりないので、更新ペースとか、記事の組み立て方とか、わからないことばかりなんですけど、自分の好きなように自由に書いていけたらなと思います。よかったらまた見に来てね。