善くない人が良いです
恩着せがましくて気が利く人に気を利かせてもらうくらいなら、全く気が利かない人に放っておいてもらう方がラクでいい。ペコペコお礼を言ってまで、へりくだった態度をとってまで、他人にやってほしいことなんて無いんだよ。
気が利く人々がたくさん集まると、気が利く人々の間で“気の利かせあい合戦”みたいなものが始まる。なにかにつけての親切も、感謝も、お互いが気を利かせることでその程度がエスカレートしていく。いきすぎた親切はみっともないお節介になって、感謝のお礼はへりくだりすぎてむしろ下品にみえる。不毛すぎると思いながらそれを眺めていることがよくある。
そんななかにいると、気の利かせ合い合戦から離脱した自分は気が利かない悪者みたいになってしまうんじゃないかって思って、本当に疲れる。誰かに困難があったとき、それがどんなに小さなものでも、『親切な』人たちはこぞってそのお手伝いをしに行く。僕も半分だけ椅子から腰を浮かせて、「あ、大丈夫かな……」みたいなポーズだけ取ったりする。でも誰かを助けるためじゃない。悪者にならないためだ。
もうよくないですかそういうの!
本当は、「ありがとうございます」と一回言えばちゃんとお礼が成立する世界になってほしいし、お節介にならないと確信したときにだけ助けを出したい。
僕もたまには親切をすることがある。そのときの相手の感謝のお礼がダラダラと長く、やり過ぎなくらいへりくだっていて、そんな態度で僕への称賛を並べられると、僕はそこに居るのも嫌になる。まるでこっちがそうやってベッタベタに感謝されたくて仕方がなかったみたいだ。そういうとき、自分がどうしようもなく卑しい人になり下がったみたいに感じられて、もう居られなくなって、「どういたしまして」を言うのも忘れたまま、その場から逃げてしまうことがある。気にしすぎかもしれないけど。
お礼にお礼を述べて、それにまたお礼で返すみたいな。そういう不毛なやりとりをどうにかして僕で断ち切ろうと、毎日ちょっとの努力をしている。しているのだけど、断ち切るたびにいわゆる『善』とか『道徳』とかっていうものに、毎回余計なちょっかいを出される。
おれのものはおれのもの
自分のこともままならないような人が「親だけは悲しませたくない」とか「親が安心するように◯◯しなきゃ」と言っているの見ると、そうやって言っている間だけ立っていられるんだろうなと思う。
親の心配事に言及することで一番助かってるのが実は自分って構造ができているような気がする。そこまでいけるなら心配事をキャッチする能力は壊れてないんだから、もうちょっと考えて自分を助けてみれば何か好転するかもしれないのに。
でもなかなかできないよなあ。自分で自分を助けることは、現実を直視することだから、自分の責任で歩を進めることだから、難しいだろうな。
僕は同情してるんじゃなくて、挑発してるんだぞ。
自分の心配をすることは一番怖いことで、親や友達、恋人の心配をしてる間はそれを忘れられるよな。他人の心配はどこまでいっても、どんな結末になっても、その責任や損害や苦悩が自分に降りかかることはないから、安心して心配してやることで、自分の存在意義をいつまでも確認していられるよな。実際はほとんどなんの役に立ってもいないけど、それでも心配してるだけで、なんもしてないよりは気がまぎれるもんな。
ごく当たり前のことを改めて言うけれど、自分の人生の責任を負うのは自分だけだし、他人の苦悩を代わりに味わうなんてことは誰にもできない。
誰も自分の代わりに人生を進めてはくれないし、いくら他人の心配をしたところで本人が背負う苦悩の量そのものは減らない。これは心配する側になってもされる側になっても言えることだと思う。
やらない善よりやる偽善、という言葉がある。たしかに、偽善はゼロより0.1でも仕事量が有るのかもしれないけれど、そんな限りなくゼロに近いような仕事をして満足する前に、自分自身のための仕事をしたほうが結果的にみんなの役に立つみたいなことが、世の中にはたくさんある気がする。
見せかけだけの、ポーズをとることに酔った、苦悩の肩代わりを、優しさと呼んで称えるな。
真人間になるための忙しくする訓練
朝満員電車に乗って実習に行き、昼学校に戻って授業に出、その後は研究室で夜遅くまで課題をやって、きりがついたら帰って寝る。
院生になってからずっとそんな生活を続けている。冷静になってみたら引くくらい勉強をしていると思う。毎日忙しくて、土日も研究室で資料を作成したり文献に目を通したりしている。こうやって忙しくしていること、以前の自分からはとても考えられない。もともと忙しくしていることが苦手なタイプで、手帳を見て予定が詰まっていると緊張や不安で胸がギュッとなってしまう。そういう性格だった。だから仕事が増えることを強迫的に避けてここまで生きてきたのだけど、とうとうそれも通じなくなってきたという感じ。院生という立場になってから、ラクそうな逃げ道が次々に消えて、あれもこれもやらなきゃダメですみたいな状況になったのだけれど、案外こうやって順応している。これが僕には驚きだった。現に今も、実習の報告書を書きながら夜やらなくちゃいけないレポート2本の構想を練り、頭の片隅では明日やる課題と実習の準備の計画を立てているけど、以前のような胸がギュッとなる感覚は無い。日記は息抜きで書いている(この息抜きを取り入れる習慣も院生になってからついた)。やることだらけの毎日に慣れてしまったのかもしれない。毎日目の前の仕事を、優先順位の高い順にただ片づけて吸収していくというサイクルや心構えが自分の中に浸透している気がする。まるで優等生じゃないか。
その日のやることを全部終えて、日付が変わったくらいのタイミングで真っ暗な研究棟を後にすると不思議な感覚に襲われる。家まで自転車をこぎながら、静かな高揚感に包まれて鼻歌を歌いたくなる。達成感というものだと思う。
カウンセリングに通っていた時、「自分を褒めたことがあるか」と聞かれて答えに窮したことがあった。心理士はもっとわかりやすく、「達成感というものを感じたりすることはある?」という質問も投げてくれたが、僕は深いソファの中で首をかしげるばかりで、あとは「うーん…」とか「そうですねぇ…」とか言うだけだった。心理士は「まぁ普通の人はもっと当たり前に自分を褒めたりしてるけどね」と言ったけど、それは僕にとって新鮮な発見だった。みんな自分を褒めたり達成感を感じたりするのか。でもどうやって…?
かなり前からそのことを意識するようになって、最近やっと自分で体験することができるようになってきた。気がする。
忙しさに耐性が少しついたこと、達成感を感じて自分を褒められるようになってきたかもしれないこと。あんなに遠くにいた“真人間”に、本当に少しずつだけど近づいているのかもしれない。
育ちの悪さとまでは言わないけれど
実家の電話の隣においてあるペン立てには、いつもぎっしりと鉛筆やペンがつまっている。銀行とか学校でタダでもらえるペンや鉛筆などを、うちの家族が貰えるだけ貰ってくるのだ。あの、バラバラの種類のペンがぎゅうぎゅうに詰まったペン立てを見るたび、自分のルーツはやはりここなんだなぁという気持ちになる。
インテリアの雑誌なんかを眺めていると、まずはモノを持ちすぎないようにして、そのうえで収納を駆使することで、モデルルームのような見栄えのいい部屋ができあがると書いてある。オシャレな部屋に憧れる僕は、見栄えのいい部屋を目指してアレコレ試していた。そんなときに、久々の帰省だった。我が家の居間でテレビを見ていると、電話がかかってきた。伝言を頼まれたので、メモを取ろうと鉛筆に手を伸ばしたところ、ぎゅうぎゅう詰めのペン立てをひっくり返してしまった。ああああなんだこれ、めんどくせぇ。だいたいなんだよこのペン、もうインクがないじゃんか。バトルエンピツなんて置いて誰が遊ぶんだよ。なんでペン立てに耳かきが入ってるんだ。実家住みしていたときの自分が気にもしなかったような、このペン立てのスマートじゃなさ、素敵じゃなさに次々気がついて、それが一気に噴出した。
あのぎゅうぎゅう詰めのペン立てには、独特の芋くささがあった。『タダで貰えるものはなんでも貰って、いつ必要になるか分からないからできるだけ捨てないでおこう』という、古くさい考えが凝縮されたものだと思う。実家にはそういうものが沢山ある。とてもじゃないがもう着られないような服が、いまだに衣装ケースに詰まっているし、車庫のガラクタスペースは年々増えていくばかりだ。
あらゆるモノに、惰性の紐がついているようだ。時間の経過とともに部屋に絡みついて、モノを使うこともないのに処分もできず、部屋に居残ってしまう。ひっくり返したペン立てをようやく片付けて、ふと下宿の部屋のペン立てを思い出してみる。ハサミが2本も入っていたり、インクの切れたペンがそのまま放置されていて、ぎゅうぎゅう詰めだ。実家から離れて、自分が自分の好きなように部屋にモノを並べた結果、芋くさいと思ったあのペン立てが見事に再現されていた。呪縛だ。このルーツからは逃れられそうにない。この貧乏性は僕の深く深くのところまで浸透しているようだ。オシャレな部屋作りはまだまだ先になりそうです。
見た目がとてもきれいな人
見た目がとてもきれいな人と話をした。見た目がきれいな人ではなくて、見た目がとてもきれいな人と話した。
見た目がとてもきれいな人は、すんでいる世界が僕とは違うようだった。見た目がとてもきれいな人の世界に出てくる人たちは、僕の世界に出てくる人たちよりも、積極的に親切な行いをする人が多いようだった。 「すごく優しい人たちなんだね」というと、「本当に良くしてもらって、助かっています」という。僕もまわりの人に良くしてもらいたい。
見た目がとてもきれいな人の毎日には、華やかで、刺激のあるものがたくさんあった。いったいどうやったら、六本木のオシャレなバーでアルバイトをすることができるのだろう。僕には見当もつかなかった。パーティーとかイベントってそんなに頻繁に招待とかされるものなのか。僕には想像もつかなかった。
見た目がとてもきれいな人の世界は、1日が28時間くらいあるように感じた。芸術鑑賞も大学の勉強も作品制作もサークルもバイトも趣味も、こんなに別々のことをやって1日が24時間なわけがない。毎日12時間ちかく寝ている僕には到底理解できなかった。
見た目がとてもきれいな人の世界に触れたとたん、僕の生活のなにもかもが色あせたものに感じられた。なまぐさい生活感を凝縮したような僕の顔、服装、下宿の部屋、食事、生活。ああもう、どれも話す気がしない。あんなに華やかな話を聴いたあとで、こんなにしなびた自分の日常のなにを話せというのか。それでもなにか話そうと、無味乾燥な日常に精一杯のおめかしをして、ウケそうな話題をなんとか絞り出してみる。見た目がとてもきれいな人は、大きな目をこちらに向けながら、「ええ!」「そうなの!?」と笑顔であいづちをうった。なんとか会話に花を咲かせ、ようやくのオチをつけたところで、ホッと安心しながら、虚しくなった。見た目がとてもきれいな人には弱点がないのか。あんなに華やかで刺激的で、いろんな人が気にかけてくれるような世界にいながら、生活感や孤独感のあふれる地味な世界でボケッと平面的に生きている僕の話に、くすくすと感じ良く笑うようなところをみて、本当に切なくなった。見えている世界が違う彼女に、この虚しさや切なさを説明しても、この感じを分かってもらうことはできないだろうと思った。こんな人が存在している世界で、僕はいったいなにをしているんだろう。
「お金がたくさん稼げる職業がいいです!」
料理ができる(イケメンの)男
「え?○○くん料理できるの??すごーい!」
えー、料理男子なんて言葉がありましたけどね。これもう死語って感じがしますね。ひと昔前までは料理する男子なんて本当にチヤホヤされたもんです。趣味は料理なんて言ったらね、おおおっと場が盛り上がったんです。得意料理はパスタなんて言ったらね、そりゃもうモテたもんです。僕もモテたくて包丁握ったクチです。食べた事無いのにカルボナーラから勉強したクチです。
でも今現在、男性が料理するのって結構当たり前になってきましたよね。どれだけものぐさな男性でもレンジでパスタ茹でるくらいはできるし、レシピがそこかしこに転がっているせいで小学生でもパラパラのチャーハンが作れるんじゃないかって感じです。
今はもう誰でも当たり前に料理ができるんですよ。料理をする事は長所じゃなく、「当たり前」の技能になりつつあるんです。
そうなると「料理ができます」の意味だって変わってきます。少し前なら、男性は焼きそば野菜炒めチャーハンが作れるならそう宣言できました。でも今は違います。「料理ができます」と宣言した時、相手の頭の中にぽわわ~~んと浮かぶのは焼きそばや野菜炒めやチャーハンではありません。そこに登場するのはイタリアンとか和食とか健康レシピとか、かなりレベルアップしたものです。フライパンになんでもぶち込んで焼肉のタレで味付けしてどんぶりに盛るようなものは、もう料理とは呼ばれなくなったのです。
男の料理の立役者的ポジションは、マヨネーズと焼肉のタレから、クレイジーソルトとオリーブ油に移行しました。最近ではこういうの使って男性が料理したりするのを男子ごはんとか呼ぶらしいです。なんかメチャメチャモテたさそうな名前……。
さらに言えば、料理をする事が当たり前の技能になった今、普通の料理なら誰でも出来る事なんだから、どうせなら顔がカッコイイ男性の料理の方が美味しそうだという話も出てきます。誰でも出来る技能にたいして価値はありません。そうなると必然的に料理という行為自体ではなく、その行為者の質によってはじめてプラス得点が加算されるという事になります。これは僕みたいにモテたくて料理を始めたタイプの男性には大きな痛手となります。素人に毛が生えたレベルの料理テクを披露しても、そんなの誰でも出来るし、さらに顔がきもちわるい人間が作ったとなると料理自体にマイナス点がつきかねません。料理に罪はないのに。これは我々「顔がよくない料理男子」にとって死活問題です。
テレビでオリーブオイルを撒き散らす"彼"を眺めながら、そんなことを考えました。