かへでぱへ

思ったことなどです

育ちの悪さとまでは言わないけれど

実家の電話の隣においてあるペン立てには、いつもぎっしりと鉛筆やペンがつまっている。銀行とか学校でタダでもらえるペンや鉛筆などを、うちの家族が貰えるだけ貰ってくるのだ。あの、バラバラの種類のペンがぎゅうぎゅうに詰まったペン立てを見るたび、自分のルーツはやはりここなんだなぁという気持ちになる。

 

インテリアの雑誌なんかを眺めていると、まずはモノを持ちすぎないようにして、そのうえで収納を駆使することで、モデルルームのような見栄えのいい部屋ができあがると書いてある。オシャレな部屋に憧れる僕は、見栄えのいい部屋を目指してアレコレ試していた。そんなときに、久々の帰省だった。我が家の居間でテレビを見ていると、電話がかかってきた。伝言を頼まれたので、メモを取ろうと鉛筆に手を伸ばしたところ、ぎゅうぎゅう詰めのペン立てをひっくり返してしまった。ああああなんだこれ、めんどくせぇ。だいたいなんだよこのペン、もうインクがないじゃんか。バトルエンピツなんて置いて誰が遊ぶんだよ。なんでペン立てに耳かきが入ってるんだ。実家住みしていたときの自分が気にもしなかったような、このペン立てのスマートじゃなさ、素敵じゃなさに次々気がついて、それが一気に噴出した。

 

あのぎゅうぎゅう詰めのペン立てには、独特の芋くささがあった。『タダで貰えるものはなんでも貰って、いつ必要になるか分からないからできるだけ捨てないでおこう』という、古くさい考えが凝縮されたものだと思う。実家にはそういうものが沢山ある。とてもじゃないがもう着られないような服が、いまだに衣装ケースに詰まっているし、車庫のガラクタスペースは年々増えていくばかりだ。

 

あらゆるモノに、惰性の紐がついているようだ。時間の経過とともに部屋に絡みついて、モノを使うこともないのに処分もできず、部屋に居残ってしまう。ひっくり返したペン立てをようやく片付けて、ふと下宿の部屋のペン立てを思い出してみる。ハサミが2本も入っていたり、インクの切れたペンがそのまま放置されていて、ぎゅうぎゅう詰めだ。実家から離れて、自分が自分の好きなように部屋にモノを並べた結果、芋くさいと思ったあのペン立てが見事に再現されていた。呪縛だ。このルーツからは逃れられそうにない。この貧乏性は僕の深く深くのところまで浸透しているようだ。オシャレな部屋作りはまだまだ先になりそうです。