かへでぱへ

思ったことなどです

気遣い工房

「ありがとう。○○くんって気遣いができる人だね」

むむむっと思う。気遣い?自分が?家族の誰からも「おまえは気が利かないな」と言われ、自分勝手にやってしまう自分が?むう、騙されないぞ。緩みかけた頬を緊張させる。

 

人を評するにあたって、『気遣いができる』『気遣いができない』というラベルがある。でもこのラベルはその人の気遣い加減だけでは決まらない気がする。もちろん、その人が気遣い的に動けるかどうかは『気遣いができる』人の重要な要素のひとつだけれど、僕はそれ以外にも重要な要素があると思う。

 

それ以外の重要な要素、気遣いされる側の気遣い知覚能力のことだ。

どんなに大声で叫んでも、それを聞く耳や感じる肌がなければ、その大声は無いとも考えられる。どんな刺激も、誰にも知覚されなければ無いのと同じということ。現に今こうして、五感に訴えない刺激は無いものとして僕は生きている。だから気遣いも、誰かに気遣いとして知覚されなきゃ、気遣いにならない。そう思う。

 

そうなると、気遣いする側の行動というのはその時点ではまだ気遣いではなく、『気遣い的行動』だと考えられる。この気遣い的行動は、先ほどの例でいえば音を作る空気の振動だ。誰かの耳にキャッチされてはじめて、音として認識される。気遣い的行動も、誰かの心にキャッチされてはじめて気遣いとして認識される。

 

だから、気遣いの生みの親は気遣い的行動者(気遣いする側)ではなく、じつは気遣い知覚者(気遣いされる側)なのだと思う。

 

とくに親切でもなんでもないはずの自分が、ある人と一緒にいると「気遣いができるよね」なんて言われる。僕の微かな気遣い的行動を、優れた気遣い知覚者が丁寧に気遣いへと昇華している。僕の行動を、次から次へと拾い上げて。一流の職人は材料に左右されないのだ。仕事ぶりに拍手を送りたい。

 

職人さん、あなたのおかげで僕、今日も気遣いできる男です。