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思ったことなどです

走り書き-生活への飽きと文学的な瞬間-

見ないように見ないようにしてなんとかここまできたのだけれど、やはり目の前から動かないものがある。生活への飽き。

週5で仕事をしている不自由を取り返すかのように、残された2日間で懸命に自由を味わっているんだけれど、それにすら飽きが来ている。まずいなと思っている。焼け石に水という話ではなくて、週5のぬるま湯に週2のぬるま湯を混ぜてるだけみたいな生活になりつつある。週7のぬるま湯だけがある。

自分なりにこれはまずいよなと思っていて、卓球やら読書やら、色々なことに手を出しているんだけれど、根本的な解決にはなっていないような気がしている。何をするにしても、行き止まりのゴールに向かってマラソンするみたいな、持続性のある閉塞を感じる。

 

文学的な瞬間、と僕はよく言うのだけれど、そういうものこそが、この状況を打破するのではないかと思っている。文学的な瞬間っていうのは、まるで文学のような、俗世離れした瞬間のこと。

といっても、それは別にアンビリーバブルな奇跡だけを指してるわけじゃない。SNSでみんなに自慢したくなっちゃうようなキラキラしたエピソードでもない。僕が文学的だなぁと思うのは、人間の本質的な部分に触れた瞬間とか、ぴったりと収まりの良い出来事があったとか、そういうもの。ジーンとか、ゾクゾクとか、心が震えるようなもの。

誰の生活の中にも、この文学的な瞬間っていうのはある。喜劇的であれ悲劇的であれ、こういう文学的な瞬間に立ち会えた時は、心が震える。これによって、持続性のある閉塞から、一時的だとしても、息継ぎできたような気がする。だから文学的な瞬間こそが、生活への飽きに対する打開策なんじゃないかと僕は思ってる。

 

文学的な瞬間は、生活の中から見出して掬い上げてやらないと、気付くことすらできずに過ぎていってしまう。そしてこれを見出す力にも、どうやら個人差があるみたいで、これが低い人もいる。

じゃあ低い人は、持続性の閉塞にどうやって対応しているの?ご安心を。そういう人は持続性の閉塞そのものに気がついていないから。ここまで読んで、「言っている意味がなんとなくわかります」って人は、文学的な瞬間を見出す力がある程度ある人たちなんだと思う。

でも、文学的な瞬間がいつ来るかなんて全然わかんないし、狙って呼び込むこともできない。生活の中の文学的な瞬間っていうのは、コントロールしにくいものなんだと思う。

だから創作というものは意義深いのだと思う。創作は、作品の中に文学的な瞬間を作り上げることができるから。あくまで人工物だし、どこまでいっても慰めにしかならないと、分かってもいるのだけれど。

 

 

おまけ:文学的な瞬間の生まれやすい状況→絶望的な不幸、デートの帰り道、深夜のドライブ(散歩も可)、曜日感覚がなくなった夏休みの昼間、喫煙所、疲労困憊時、など。

 

 

サルトルの嘔吐という本に、「完璧な瞬間」という言葉が出てくる。初めて読んだ時に、この言葉の意味が、なんとなく自分に近いところで了解されているような感じがした。同じようなこと考えてる人、いたのかもしれないって、少し慰められるような感じもした。