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思ったことなどです

R11215 読書の良さについて その1

 読書したいという気持ちが、ここにきて再燃している。少し前までは、本をあまり読まない期間が続いていて、その時は「読書しなければ」という義務感に似た気持ちはあっても「読書したい」という欲求が強まるわけではなかった。それが今では、猛烈に忙しい仕事が終わった後に、今日寝るまでのどのタイミングで読書タイムを取れるか、ということを考えるようになった。「帰り道で喫茶店に寄って、本を読んでから帰ろうか」とか、「ご飯とお風呂を早めに済ませて、寝る前に少しでも本を読もうか」とか、考えるのだ。
 読書の良さについて、僕が最近思っていることや、発見したことなどについて、書きたいと思う。知識がつくとか、想像の世界に浸れるとか、すぐに思いつくような読書の利点というのは数多くあるけれど、僕が自分なりに考えた、あくまで“自分にとって”の読書の良さというものについて語りたい。必然、それは僕の考え方や生活に根差したものになるので、必ずしも万人にとって頷けるような内容ではないかもしれないけれど、これを読んだ誰かが、僕の思う読書の良さについて共感し、「そうそう、読書ってそういう良いところがあるんだよな」と、気持ちをシェア出来たら嬉しいと思っている。また、普段あまり本を読まない人でも、「なるほど、確かにそうかもしれない、ちょっと本読んでみようかな」と思ってくれたりするならば、これも非常に嬉しい。

 

読書の良さその1 “うるさくない”コミュニケーションができる


 読書について、ここ最近、一番の利点だと僕が思っているのがこれ。
 読書とは、筆者と自分とのコミュニケーションだと思う。筆者の言い分を読んでいくという性質上、そのコミュニケーションは一方向的であると思われるかもしれないが、(ある程度本を読んでみると分かるのだが)実はそうでもない。確かに、筆者の言い分は、書かれているものが全てだし、読み手の反応を筆者に届けることはできない。しかし、読み手の主観的な立場から読書を経験してみると、不思議と、筆者に無視されているとか、一方向的なコミュニケーションを強いられているとは感じられないのだ。まるで対話をしているかのような感覚が(あくまで主観的にではあるが)体験されている。
 具体的な読書場面に落とし込んで考えてみようと思う。本を読んでいると、読み手はあれこれ考える。本を読んでいる時、読み手はその本とつかず離れずの距離を保ちながら、自分自身の経験や哲学を絡めさせて、本の内容に関連したことや、時には全く別とも思われるような内容を考えている(これを読書時想起と呼ぼう)。読書時想起をしながら本を読んでいると、本の内容が、読み手の読書時想起をさらに刺激するような方向へ進むということが、よく起きる。まるで筆者がこちらの動きを先読みしていたみたいに――それは完璧な先読みではなく、不完全な先読みである――読み手の読書時想起をうまく刺激してくるのだ。
 ある内容について、筆者の言い分を読み、それについて自分が考えたことが、さらに筆者の言い分によって刺激され、また新しく考える。この体験はもう、読み手の主観としてはコミュニケーションに似たようなものだろうと僕は考えている。そして、ここからが僕の言いたいこと(読書の良い点)なのだけれど、“読書は、コミュニケーションではあるのだけれど、どんなコミュニケーションよりも“うるさくない”』のだ。
 僕は、話が大好きな人間だ。人と話すのが本当に大好きなので、今の仕事(心理士)をしているというくらい、人と話すのが好きだ。人に自分の考えを伝えたり、反対に考えを聞いたり、刺激を受けて自分の思考を深めたり、話すことで人との関係が親密になったり、そういう体験が好きだ。これまでずっと、人と話すことを楽しみにして、生きてきた。だけど、人と話すというのは、同時に非常に疲れる行為である――こんなことを言っては僕の周りにいる人に失礼だが――とも感じるようになってきた。
 人と話すことが疲れるという理由はいろいろある。猛烈に忙しい仕事の中で、絶えずコミュニケーションをしていることや、僕自身が精神的に成熟してくる中で孤独の重要性に気付いてきたことなどがあるのかもしれない(孤独の重要性については、また今度、別の記事として書こうと思っている)。僕は、楽しんで人と話す時には、目や耳をフルに使って、脳と口を高速駆動させて、話していることが多い。友達は僕のことを「OFFのスイッチが壊れたラジオ」とか呼ぶけれど、本当にそれくらい全力で話をしてしまう。これほど極端でないにしろ、多くの人は、誰かと話すとき、やはり目や耳をセンサーのように使い、脳や口を動かして、やりとりをしていると思う。そしてやはり、このような作業は、(もちろん楽しくもあるが)とても疲れるのだ。
 ここで僕は、「そんな時こそ、読書なんです!」と言いたい。話をするのは大好きだけれど、人とたくさん話しているとやはり疲れる、という人にはぜひ読書を勧めたい。
 本は良い。相手に気を遣わなくて良いし、目と耳をセンサーのように使う必要も無い。伝える言葉を選ぶ必要も無いし、自分のペースで話を進められる。何より、相手の反応をうかがったり、相手から必要以上に追及されることも無い、そのコミュニケーション体験は、究極に“うるさくない”のだ。
 僕がここまで書いたようなことを実際に体験して、「読書はうるさくないコミュニケーションだ」と感じている人がいれば、ぜひ教えてもらいたい。僕の感じていたことが、僕以外の人にも感じられているのか、確かめたい。そう思って、言語化してここに書いてみた。

 

 読書の良さは他にもある。『その2 日常のループから脱出する出口になる』についても、この記事で書こうと思ったのだけれど、もう書くのに疲れてきたので、いったん切り上げてまたの機会に回す。この後、本を少し読んで、今日は寝る。

R11210 日記

最近猛烈に忙しくて、とうとう仕事が本気を出してきたなと感じている。巨大で白くて丸い、仕事という名前の怪物が、どんどん大きく膨れ上がっていく。その怪物はある時から、牙をむいて、大きな口を開けて、ガリガリと音を立てて何かを食べてているような感じになった。多分、食べられているのは僕の人権だと思う。健康で文化的な最低限度の生活というものを、無我夢中で食べているようだ。
 会社のデスクに8時間座っていると、8時間分の仕事が片付くことになっていて、これ自体は全く筋の通ったことだと思うのだけれど、問題は、8時間の間に16時間分くらいの仕事が毎日降ってくることだと思う。計算すれば小学生でもわかると思うけど、こうなるとどうしたって時間が足りなくなる。結果として、喫茶店や家でパソコンに向かって業務記録をタイピングし続けるという現象が、日常生活に常在化するようになった。
 仕事、内容を詳しく書くつもりはないのだけれど、人間を相手にギリギリのところで真剣勝負みたいな対話をする、というようなことをしていて、これが非常に面白くもあるのだけれど、消耗も著しい。旗色の悪い面接が入っている日や、個人的に好きになれない相手と話す日などは、朝から気分が滅入る。起きた瞬間から気分がどんよりと重く、自分は何のために生きているのかという、低俗で後ろ向きな哲学問答のループにはまる。
 最近は少しずつ勝手がわかってきて、この真剣勝負の戦績もまずまず自分が納得できるようなところまで高まってきた。なんとなく勝負の勘どころが掴めるような感覚になることもあるし、終わった後に何が良くて何がダメだったかがわかるようにもなってきた。多分、これが熟達というプロセスなのだと思う。身をもって体感すると分かるのだが、熟達のプロセスというのは非常にゆっくり進むもののようで、注意深く自己を省察していなければ見落としてしまうような感じすらある。
 それでもやはり、数の暴力というものの威力はすさまじい。2次関数的な調子で増えていく仕事を前にしては、カタツムリ並の速さの熟達などでは全く歯が立たない。相変わらず、仕事は溜まる一方で、在宅ワークの時間も増えるばかりである。背中はいつもバキバキだし、時間をかけて手の込んだ料理を作ることもなくなった。部屋の状態は心の状態を表すとよく言うが、それが本当だとすれば、今の僕の心は“出しっぱなしの感情が何層にも重なったまま放置されている”という状態だろう。
 しかし驚くべきこともある。それは、これだけ消耗が激しく、人権も食い散らかされているというのに、なぜか当人である僕に関しては、まるで戦士のように研ぎ澄まされた心理状態が続いているということである。満身創痍で、朝から嗚咽するようなこともあるのだが、それでも、仕事に入ってしまえば臨戦態勢に切り替わる。切った張ったの真剣勝負を繰り返し、戦況の分析から新たな作戦を練り、それを携えて更なる戦いに臨む。そういうことを繰り返していると、だんだんと自分が研ぎ澄まされていくような感覚になる。生理学的な言い方をすれば、アドレナリンが出続けていたり、交感神経が優位になり続けている、というような状態なのだろう。
 眼光炯々として一点を見つめたまま、意識を集中して思考を巡らす様子を見て、上司は「最近あなたの顔から笑顔が消えているので心配だ」と。見当違いのことを言ってはいけない。笑顔が消えているのは、それだけ集中して取り組んでいるからだ。笑顔が消えて泣きそうな顔をしているのであれば、心配のひとつもしてほしいが、今は断じてそうではない。スイッチを入れた機械が、徐々に熱を持ってきて、その機械が一番よく動く温度まで温まったような状態だ。
 思考を研ぎ澄ませることの、なんと楽しいことか!
 できれば、この状態をできるだけ長く続けていたいと思う。なんとも形容しがたい静かで熱い興奮や、“やってやれないことはない”という全能感に触れることは、僕にとっては新鮮な幸福な感覚である。仕事における「やりがい」というのは、もしかしたらこういうディープな状況で感じる不思議な幸福感のことを言っているのかもしれないとも思う。とにかく、このフロー状態をできるだけ引き伸ばせたらいいなと、僕は思っている。
 しかし残念ながら、この状態が長く続くように人間の脳はできていない。学問的にも経験的にも、僕はそのことをよく知っている。温度が上がりすぎて余分な熱を持った機械は、やがてオーバーヒートという現象を起こす。そしてその動きが止まるばかりか、深刻な故障を引き起こすこともある。人間でいうところの、燃えつき症候群とか、バーンアウトとかいう状態にあたるのではないかと思う。急に会社に行けなくなる人の中にも、こういう人は一定数いるのではないだろうか。
 早く回転しすぎた車輪は、徐々に減速させるに限る。焦ってブレーキを踏んではいけない。車輪の回転力は、簡単にブレーキをへし折る。徐々に徐々に、戦士の世界から現実生活へ戻ってくる方法を模索するため、今こうやって自分の内面を省察して、文字に起こしている。

私と、窓越しの世界

アパートの部屋で自撮りをしている。髪を下ろして、服を少しはだけさせて、私は自撮りをしている。酒が入って、紅潮した頰が、狙った通りに色っぽいなと思う。彼のスマホでシャッターを切る音が、カシャリ、カシャリ、と、狭い部屋に響く。

 

彼はシャワーを浴びている。脱衣所のドア越しに、その音がくぐもって聞こえる。彼はこれから家に帰る。私の部屋から駅に向かい、電車にのって、彼は彼の家に帰る。

 

カシャリ。私は自撮りをしている。口をだらしなく開けて舌を出したり、下着の紐を見せたりして、少しでも色っぽい写真になるよう、試行錯誤している。彼のフォルダにはどんどん写真が溜まっていく。

 

彼とは恋人なのか友達なのか、よく分からない。もし恋人だったら、それは嬉しいけれど、彼から告白されたことは無いし、私からそういうことを言った覚えも無い。彼が私を好きでいるかは分からないし、私が彼を好きなのかどうかはもっと分からない。ただ、世の中で彼だけは、私のことを認めてくれているような気はする。彼だけは、私の目を見て話をしてくれるし、私に触れて喜んでくれる。それに、彼だけは、私から何も言わなくても、私に話しかけてくれるのだ。

 

『好き』がどういう感じか、彼と寝るたびに分からなくなる。満たされる感覚はあるけれど、いまいちそれが『好き』と繋がっていかない。はっきりしないせいで、少しモヤモヤすることもあるけど、私は難しいことを考えるのは苦手だし、なにより彼と寝てしまえば、とりあえずそんなことはどこかへ行ってしまう。

 

彼はたまにここへ来て、私と寝て、朝方になると起き出して、シャワーを浴びてから出て行く。彼は彼の家に帰るのだ。そういうパターンがある。このパターンの中に、時たま、一緒にご飯を作るとか、お店へお酒を飲みに行くとか、そういう出来事が入ってくるけれど、そう大きな違いはない。

 

カシャリ。私は、彼のスマホで自撮りをしている。私は、彼がシャワーを浴びているうちに、彼のスマホで、色んなアングルから、もう何十枚も、自撮りをしている。スマホは、断続的なリズムでシャッター音を刻んでいる。この後、駅まで歩く中で、もしくは帰り道の電車だろうか、家に着いてからかもしれない。彼はこれを見つけるだろう。これだけの写真を、彼は順番に眺める。彼が目を見開いたり、一気に心拍数が上がるような写真もある。その時、彼の頭の中は私でいっぱいになる。

 

 

1枚だけでもいい。彼がまたここへ来るきっかけが欲しい。

重み

朝だ。

冷え切ったまぶたを少し持ち上げると、まだ部屋は薄暗くて、そして思い出した、今日は月曜だ。

胸がギュッとなって、涙が出そうになる。どうして私、こんな生活をしているのだろう。だるくて重い身体は、死体みたいに横たわったままで、頭だけがネガティブな方向へ回転していく。まるで世界に自分しかいないような感じがして、心細い。「ああ、ひとりぼっちでこの気持ちと闘わなければならないのか」的なことを思って、また胸がギュッとなった。私はまぶたを閉じて、夢に戻るための入り口を探す。

再び濁ってきた意識の中で、今日がどんな日になるか考える、朝イチの会議のこと、苦手な人との約束のこと、(夢の中の私が地下鉄を乗り間違えた)、終わりが見えない作業のこと、(間違えたまま発車した)、今日休んだらダメかな、(地下鉄は止まらず走り続ける)、(腕時計を見る、あと1分で始業時間だ)、また胸がギュッとなる、(涙がじわじわ出てくる、ドアをバンバン叩いても、地下鉄は止まらない、どうしよう、遅刻しちゃう、会議に間に合わない、会社がどんどん遠ざかっていく、また腕時計を見たら、もうお昼になっている、会議に間に合わなかったんだ!どうしよう!

 

ーーー!心臓がバクバクする。そしてすぐ、呼吸の仕方を思い出した。部屋は薄暗い。月曜の朝だ。枕が涙で濡れている。汗が冷えて寒い。

私は身体を起こして、時計を確認した。6時38分。布団から出て、寒さに震えながらトイレに向かう。温かい尿を蓄えて、重たくなった膀胱が、ぱんぱんに膨らんで、はち切れんばかりだった。

書くことは怖いよ。

「書くことは怖いよ。

書くとさ、書いた人間の中身が、現実の世界に出てきちまうんだ。ああこいつ、こんなこと思ってたんだ、とか、こんなこと経験したんだろうな、とか、書いたものから、書き手の内面にあったリアルが浮かび上がってきちまうんだ。それが、書くっていうことの怖さなんだ。

現実に生きていない作家はいないだろ?誰しも、現実、この世に生きているんだ。現実にはたくさんの人間がいる。おれの周りには、おれと深く関わっている人間が、たくさんいるんだ。おれが書いたものを見てさ、誰がどんな風に傷つくか、想像するんだ。もしこれを書いたらどうなるだろう、って具合だね。そうするともう、ペンが進まなくなるんだ。怖くてね。

おれは別にさ、日常のど〜〜うでもいいことを書いたりした時のことを言っているんじゃないぜ。そんなものは、書くって言わないね。おれの言う、書くってのは、もっとこう、自分の内面と向き合って、奥深くにある、形にならないようなものを捕らえて、伝達可能な言葉にして、この世に出すってことなんだ。これが、おれには恐ろしいんだ。

秘密の無い人間はいないだろ?どんな人間だって1つや2つ、墓場まで持っていきたいような秘密があるはずだ。墓場じゃなくたっていい、毎晩、自分の部屋で、こっそりひとりで眺めていたいような秘密だってある。真剣に書くってことはよ、こういうものが、自分の外に漏れちまう体験なんだ。秘密はなんで秘密か、分かるか?秘密は、人を傷つけるから秘密にしてるんだ。それが外に出たら、必ず誰かを傷つけちまう。なぁ、だんだんわかってきてくれたか?

 

あんた、ちょっといい顔になってきたじゃないか。やっと、少しばかり、わかってくれたみたいだ。おれだって、こういう話をすることに、ためらいはあったさ。そして今は、やっぱりやめときゃよかった、と後悔しているんだ。

おれは恥ずかしい。こんな一丁前なことをほざいて。秘密にしておきゃ良かったんだ。おれは恐ろしい。こんなことを言ったら、まるであんたの考えを、否定するみたいだろう。

こんなこと続けていたら、おれのそばには誰もいなくなっちまうんじゃないかって、そう思ったら、もう書けないんだ。

走り書き-生活への飽きと文学的な瞬間-

見ないように見ないようにしてなんとかここまできたのだけれど、やはり目の前から動かないものがある。生活への飽き。

週5で仕事をしている不自由を取り返すかのように、残された2日間で懸命に自由を味わっているんだけれど、それにすら飽きが来ている。まずいなと思っている。焼け石に水という話ではなくて、週5のぬるま湯に週2のぬるま湯を混ぜてるだけみたいな生活になりつつある。週7のぬるま湯だけがある。

自分なりにこれはまずいよなと思っていて、卓球やら読書やら、色々なことに手を出しているんだけれど、根本的な解決にはなっていないような気がしている。何をするにしても、行き止まりのゴールに向かってマラソンするみたいな、持続性のある閉塞を感じる。

 

文学的な瞬間、と僕はよく言うのだけれど、そういうものこそが、この状況を打破するのではないかと思っている。文学的な瞬間っていうのは、まるで文学のような、俗世離れした瞬間のこと。

といっても、それは別にアンビリーバブルな奇跡だけを指してるわけじゃない。SNSでみんなに自慢したくなっちゃうようなキラキラしたエピソードでもない。僕が文学的だなぁと思うのは、人間の本質的な部分に触れた瞬間とか、ぴったりと収まりの良い出来事があったとか、そういうもの。ジーンとか、ゾクゾクとか、心が震えるようなもの。

誰の生活の中にも、この文学的な瞬間っていうのはある。喜劇的であれ悲劇的であれ、こういう文学的な瞬間に立ち会えた時は、心が震える。これによって、持続性のある閉塞から、一時的だとしても、息継ぎできたような気がする。だから文学的な瞬間こそが、生活への飽きに対する打開策なんじゃないかと僕は思ってる。

 

文学的な瞬間は、生活の中から見出して掬い上げてやらないと、気付くことすらできずに過ぎていってしまう。そしてこれを見出す力にも、どうやら個人差があるみたいで、これが低い人もいる。

じゃあ低い人は、持続性の閉塞にどうやって対応しているの?ご安心を。そういう人は持続性の閉塞そのものに気がついていないから。ここまで読んで、「言っている意味がなんとなくわかります」って人は、文学的な瞬間を見出す力がある程度ある人たちなんだと思う。

でも、文学的な瞬間がいつ来るかなんて全然わかんないし、狙って呼び込むこともできない。生活の中の文学的な瞬間っていうのは、コントロールしにくいものなんだと思う。

だから創作というものは意義深いのだと思う。創作は、作品の中に文学的な瞬間を作り上げることができるから。あくまで人工物だし、どこまでいっても慰めにしかならないと、分かってもいるのだけれど。

 

 

おまけ:文学的な瞬間の生まれやすい状況→絶望的な不幸、デートの帰り道、深夜のドライブ(散歩も可)、曜日感覚がなくなった夏休みの昼間、喫煙所、疲労困憊時、など。

 

 

サルトルの嘔吐という本に、「完璧な瞬間」という言葉が出てくる。初めて読んだ時に、この言葉の意味が、なんとなく自分に近いところで了解されているような感じがした。同じようなこと考えてる人、いたのかもしれないって、少し慰められるような感じもした。

日記 190204

仕事、知的な活動をすることも多くて、基本的には満足している。学生時代に学んだことの延長で、ナマの人間を相手に、コミュニケーションを試行錯誤しながら、一喜一憂を繰り返している。

 

職場のおばさんと上司の仲が悪い。おばさんから、上司のことを良く思っていないということを打ち明けられた。おばさんは目に涙を溜めながら、自分が受けたという仕打ちについて語った。

それ(おばさんの打ち明け話)によって、僕の意識に良くないタネが蒔かれた。なんとなく、上司が汚い大人に見えるようになった。それを聞く前と後で、上司が変わったわけじゃないんだけど、なんとなく笑顔を向けて話す気になれなかった。おばさんがなぜいつも、小さな声で、上司ではなく僕に、仕事のやり方を聞いてくるのか、理由を推測してしまうようになった。なにも変わっていないはずなのだけれど、職場の緊張感が増した気がする。

僕はおばさんに対して、かえって冷たく当たるようになった。別に上司の肩を持つわけじゃない。なんとなく仲間に引き込まれるような力を感じているからだ。話を聞いてくれるってことは、あなたも同じ意見なのよね、という心を感じてしまう。

職場、どこかしらに欠陥のある人たちが、精一杯"わたしはマトモな人間ですよ"みたいな顔して、協力している場所なのだ。僕も上司もおばさんも、どっかしら道理から外れたおかしな部分があって、それを見せないように、それと、相手のを見ないように、気を遣ってやってきたのだ。

おばさんが口に出したから全部パーになったのかもしれない。でも、おばさんが口に出しちゃうほど、上司も自分の欠陥を隠せてなかったんだなと思う。そして僕も、なんとなく二人のおかしなところを探して、見つけて、楽しんでるようなところがある。

 

なんか口走る前に有給とろう。