かへでぱへ

思ったことなどです

思い出し効果

ある夜、散歩をしながら、昼にした会話をぐるぐると思い出していた。

 

「 お昼食べないの?ダイエット? 」

「 いや、そういうわけじゃないんですけど、週末に人と会うので・・・ 」

「 だから? 」

「 僕が太って行ったら相手も嫌でしょう 」

「 へ~、素敵じゃん 」

「 実際は何の意味も無いですけどね 」

「 いやいや、会うまで毎日思い出してくれるっていうのが良いんじゃん 」

「 そういうものですか 」

「 そういうものだよ 」

 

そういうものなのかぁ。最近やたらとよく聞く。人はなにかにつけて相手に思い出してもらうのが嬉しいのだということを。今回の思い出しタイミングは「 会うまでの毎食時 」だったけれど、他に聞くのは「 ふとした瞬間 」、「 同じにおいの香水をかいだ時 」、「 良いことがあって誰かに話したい時 」なんかもある。「 夜寝る前にいつも思い出したいの 」と言っている人もいた。なるほど、思い出してもらうだけじゃなくて思い出すのが良いというパターンもあるのか。

 

僕がどれだけ相手を思い出そうと、相手は僕が思い出しているなんてことは知らない。逆も同じ。相手がどんなに僕を思い出しても、僕はそんなことは知らないから、いつもこうやって退屈な表情で退屈な気持ちでいる。なにかのきっかけで誰かに思い出されてるってもしわかったら、確かに心がウキウキするような気がする。退屈をどこかにやってくれそうなほど嬉しいと思う。その人に好きなお菓子を買ってあげたくなるくらいその人を大事に思うだろうと思う。だけれど、実際にそれを知ることはほとんどなかったので、僕の世界にそういうことは無いのと同じだった。

 

恋人同士くらいじゃないか。「 今日ね、いっしょにお茶したあの喫茶店の前を通ってね、初めてデートした時のことを思い出したよ 」なんてことを言われたら確かにしあわせだろうなと思うし、それを言葉にして伝える恋人たちもイメージできる。恋人がいない人はウキウキが抜け落ちた退屈から抜け出せないのか。しまった。

 

うーん…。でも僕がこれだけ人を思い出すのだから、どこかの誰かも僕のことをこれくらい思い出してくれててもおかしくないのでは。めちゃくちゃな論理だけれど、そう思うと結構嬉しくなってきて、そのうち「 そうだ。きっとそうなんだ 」と信じ込むような気持ちになってくる。夜の散歩から帰るころには、「 素敵じゃん 」と昼飯時に言ってくれたあの人の考えについても、僕の中でじんわりと共感されるようであった。

気遣い工房

「ありがとう。○○くんって気遣いができる人だね」

むむむっと思う。気遣い?自分が?家族の誰からも「おまえは気が利かないな」と言われ、自分勝手にやってしまう自分が?むう、騙されないぞ。緩みかけた頬を緊張させる。

 

人を評するにあたって、『気遣いができる』『気遣いができない』というラベルがある。でもこのラベルはその人の気遣い加減だけでは決まらない気がする。もちろん、その人が気遣い的に動けるかどうかは『気遣いができる』人の重要な要素のひとつだけれど、僕はそれ以外にも重要な要素があると思う。

 

それ以外の重要な要素、気遣いされる側の気遣い知覚能力のことだ。

どんなに大声で叫んでも、それを聞く耳や感じる肌がなければ、その大声は無いとも考えられる。どんな刺激も、誰にも知覚されなければ無いのと同じということ。現に今こうして、五感に訴えない刺激は無いものとして僕は生きている。だから気遣いも、誰かに気遣いとして知覚されなきゃ、気遣いにならない。そう思う。

 

そうなると、気遣いする側の行動というのはその時点ではまだ気遣いではなく、『気遣い的行動』だと考えられる。この気遣い的行動は、先ほどの例でいえば音を作る空気の振動だ。誰かの耳にキャッチされてはじめて、音として認識される。気遣い的行動も、誰かの心にキャッチされてはじめて気遣いとして認識される。

 

だから、気遣いの生みの親は気遣い的行動者(気遣いする側)ではなく、じつは気遣い知覚者(気遣いされる側)なのだと思う。

 

とくに親切でもなんでもないはずの自分が、ある人と一緒にいると「気遣いができるよね」なんて言われる。僕の微かな気遣い的行動を、優れた気遣い知覚者が丁寧に気遣いへと昇華している。僕の行動を、次から次へと拾い上げて。一流の職人は材料に左右されないのだ。仕事ぶりに拍手を送りたい。

 

職人さん、あなたのおかげで僕、今日も気遣いできる男です。

羨ま恨めしや

正午過ぎ、汚い中華料理屋でラーメンセットを注文した。

ちょうどその時、歳のいってそうな作業着姿のお父さんと、でっぷり肥えた外国人のお母さんと、まだ小3くらいの女の子って家族が僕の向かいのテーブルに座った。

お母さんは不自然な日本語でギョーザを注文した。どうやらメニューも読めないらしい。子どもはそんな母親が恥ずかしいという様子で、他人ですよ〜〜とでも言いたげにそっぽを向いていた。

しばらくして僕のところに料理が運ばれてきた。例のお母さんは僕のラーメンセットをみるなり、「アレがいい!アレ!アレがいいよ!」と旦那さんに訴えていた。

僕はイライラした。いや、ギョーザもう焼いてるのになと思った。旦那さんは「ああ、でもギョーザでいいだろ」と言った。でもお母さんは止まらなくて、店員さんに「スイマセン!スイマセン!」と声をかけていた。そっぽを向いてた女の子はいつの間にかふくれっ面になっていた。

お母さんは店員にギョーザを辞めてラーメンセットを注文していた。旦那さんは「いや、ギョーザ取り消さなくていいかな」と言ったが、お母さんは「なんで!?ギョーザいらないよ!私、アレがいい!」と言った。僕はますますイライラした。

店員は「はい!かしこまりました!」と気持ちが良かった。あ、通るんだ...と一瞬思ったけど、そこからまた悔しさが湧いてきた。ムカムカしてきたところで、ついにふくれっ面の女の子と目があった。

善くない人が良いです

恩着せがましくて気が利く人に気を利かせてもらうくらいなら、全く気が利かない人に放っておいてもらう方がラクでいい。ペコペコお礼を言ってまで、へりくだった態度をとってまで、他人にやってほしいことなんて無いんだよ。

 

気が利く人々がたくさん集まると、気が利く人々の間で“気の利かせあい合戦”みたいなものが始まる。なにかにつけての親切も、感謝も、お互いが気を利かせることでその程度がエスカレートしていく。いきすぎた親切はみっともないお節介になって、感謝のお礼はへりくだりすぎてむしろ下品にみえる。不毛すぎると思いながらそれを眺めていることがよくある。

 

そんななかにいると、気の利かせ合い合戦から離脱した自分は気が利かない悪者みたいになってしまうんじゃないかって思って、本当に疲れる。誰かに困難があったとき、それがどんなに小さなものでも、『親切な』人たちはこぞってそのお手伝いをしに行く。僕も半分だけ椅子から腰を浮かせて、「あ、大丈夫かな……」みたいなポーズだけ取ったりする。でも誰かを助けるためじゃない。悪者にならないためだ。

 

もうよくないですかそういうの!

 

本当は、「ありがとうございます」と一回言えばちゃんとお礼が成立する世界になってほしいし、お節介にならないと確信したときにだけ助けを出したい。

 

僕もたまには親切をすることがある。そのときの相手の感謝のお礼がダラダラと長く、やり過ぎなくらいへりくだっていて、そんな態度で僕への称賛を並べられると、僕はそこに居るのも嫌になる。まるでこっちがそうやってベッタベタに感謝されたくて仕方がなかったみたいだ。そういうとき、自分がどうしようもなく卑しい人になり下がったみたいに感じられて、もう居られなくなって、「どういたしまして」を言うのも忘れたまま、その場から逃げてしまうことがある。気にしすぎかもしれないけど。

 

お礼にお礼を述べて、それにまたお礼で返すみたいな。そういう不毛なやりとりをどうにかして僕で断ち切ろうと、毎日ちょっとの努力をしている。しているのだけど、断ち切るたびにいわゆる『善』とか『道徳』とかっていうものに、毎回余計なちょっかいを出される。

おれのものはおれのもの

自分のこともままならないような人が「親だけは悲しませたくない」とか「親が安心するように◯◯しなきゃ」と言っているの見ると、そうやって言っている間だけ立っていられるんだろうなと思う。

親の心配事に言及することで一番助かってるのが実は自分って構造ができているような気がする。そこまでいけるなら心配事をキャッチする能力は壊れてないんだから、もうちょっと考えて自分を助けてみれば何か好転するかもしれないのに。

 

でもなかなかできないよなあ。自分で自分を助けることは、現実を直視することだから、自分の責任で歩を進めることだから、難しいだろうな。

 

僕は同情してるんじゃなくて、挑発してるんだぞ。

 

自分の心配をすることは一番怖いことで、親や友達、恋人の心配をしてる間はそれを忘れられるよな。他人の心配はどこまでいっても、どんな結末になっても、その責任や損害や苦悩が自分に降りかかることはないから、安心して心配してやることで、自分の存在意義をいつまでも確認していられるよな。実際はほとんどなんの役に立ってもいないけど、それでも心配してるだけで、なんもしてないよりは気がまぎれるもんな。

 

ごく当たり前のことを改めて言うけれど、自分の人生の責任を負うのは自分だけだし、他人の苦悩を代わりに味わうなんてことは誰にもできない。

誰も自分の代わりに人生を進めてはくれないし、いくら他人の心配をしたところで本人が背負う苦悩の量そのものは減らない。これは心配する側になってもされる側になっても言えることだと思う。

 

やらない善よりやる偽善、という言葉がある。たしかに、偽善はゼロより0.1でも仕事量が有るのかもしれないけれど、そんな限りなくゼロに近いような仕事をして満足する前に、自分自身のための仕事をしたほうが結果的にみんなの役に立つみたいなことが、世の中にはたくさんある気がする。

 

見せかけだけの、ポーズをとることに酔った、苦悩の肩代わりを、優しさと呼んで称えるな。

真人間になるための忙しくする訓練

 朝満員電車に乗って実習に行き、昼学校に戻って授業に出、その後は研究室で夜遅くまで課題をやって、きりがついたら帰って寝る。

 院生になってからずっとそんな生活を続けている。冷静になってみたら引くくらい勉強をしていると思う。毎日忙しくて、土日も研究室で資料を作成したり文献に目を通したりしている。こうやって忙しくしていること、以前の自分からはとても考えられない。もともと忙しくしていることが苦手なタイプで、手帳を見て予定が詰まっていると緊張や不安で胸がギュッとなってしまう。そういう性格だった。だから仕事が増えることを強迫的に避けてここまで生きてきたのだけど、とうとうそれも通じなくなってきたという感じ。院生という立場になってから、ラクそうな逃げ道が次々に消えて、あれもこれもやらなきゃダメですみたいな状況になったのだけれど、案外こうやって順応している。これが僕には驚きだった。現に今も、実習の報告書を書きながら夜やらなくちゃいけないレポート2本の構想を練り、頭の片隅では明日やる課題と実習の準備の計画を立てているけど、以前のような胸がギュッとなる感覚は無い。日記は息抜きで書いている(この息抜きを取り入れる習慣も院生になってからついた)。やることだらけの毎日に慣れてしまったのかもしれない。毎日目の前の仕事を、優先順位の高い順にただ片づけて吸収していくというサイクルや心構えが自分の中に浸透している気がする。まるで優等生じゃないか。

 その日のやることを全部終えて、日付が変わったくらいのタイミングで真っ暗な研究棟を後にすると不思議な感覚に襲われる。家まで自転車をこぎながら、静かな高揚感に包まれて鼻歌を歌いたくなる。達成感というものだと思う。

 カウンセリングに通っていた時、「自分を褒めたことがあるか」と聞かれて答えに窮したことがあった。心理士はもっとわかりやすく、「達成感というものを感じたりすることはある?」という質問も投げてくれたが、僕は深いソファの中で首をかしげるばかりで、あとは「うーん…」とか「そうですねぇ…」とか言うだけだった。心理士は「まぁ普通の人はもっと当たり前に自分を褒めたりしてるけどね」と言ったけど、それは僕にとって新鮮な発見だった。みんな自分を褒めたり達成感を感じたりするのか。でもどうやって…?

 かなり前からそのことを意識するようになって、最近やっと自分で体験することができるようになってきた。気がする。

 忙しさに耐性が少しついたこと、達成感を感じて自分を褒められるようになってきたかもしれないこと。あんなに遠くにいた“真人間”に、本当に少しずつだけど近づいているのかもしれない。

育ちの悪さとまでは言わないけれど

実家の電話の隣においてあるペン立てには、いつもぎっしりと鉛筆やペンがつまっている。銀行とか学校でタダでもらえるペンや鉛筆などを、うちの家族が貰えるだけ貰ってくるのだ。あの、バラバラの種類のペンがぎゅうぎゅうに詰まったペン立てを見るたび、自分のルーツはやはりここなんだなぁという気持ちになる。

 

インテリアの雑誌なんかを眺めていると、まずはモノを持ちすぎないようにして、そのうえで収納を駆使することで、モデルルームのような見栄えのいい部屋ができあがると書いてある。オシャレな部屋に憧れる僕は、見栄えのいい部屋を目指してアレコレ試していた。そんなときに、久々の帰省だった。我が家の居間でテレビを見ていると、電話がかかってきた。伝言を頼まれたので、メモを取ろうと鉛筆に手を伸ばしたところ、ぎゅうぎゅう詰めのペン立てをひっくり返してしまった。ああああなんだこれ、めんどくせぇ。だいたいなんだよこのペン、もうインクがないじゃんか。バトルエンピツなんて置いて誰が遊ぶんだよ。なんでペン立てに耳かきが入ってるんだ。実家住みしていたときの自分が気にもしなかったような、このペン立てのスマートじゃなさ、素敵じゃなさに次々気がついて、それが一気に噴出した。

 

あのぎゅうぎゅう詰めのペン立てには、独特の芋くささがあった。『タダで貰えるものはなんでも貰って、いつ必要になるか分からないからできるだけ捨てないでおこう』という、古くさい考えが凝縮されたものだと思う。実家にはそういうものが沢山ある。とてもじゃないがもう着られないような服が、いまだに衣装ケースに詰まっているし、車庫のガラクタスペースは年々増えていくばかりだ。

 

あらゆるモノに、惰性の紐がついているようだ。時間の経過とともに部屋に絡みついて、モノを使うこともないのに処分もできず、部屋に居残ってしまう。ひっくり返したペン立てをようやく片付けて、ふと下宿の部屋のペン立てを思い出してみる。ハサミが2本も入っていたり、インクの切れたペンがそのまま放置されていて、ぎゅうぎゅう詰めだ。実家から離れて、自分が自分の好きなように部屋にモノを並べた結果、芋くさいと思ったあのペン立てが見事に再現されていた。呪縛だ。このルーツからは逃れられそうにない。この貧乏性は僕の深く深くのところまで浸透しているようだ。オシャレな部屋作りはまだまだ先になりそうです。