かへでぱへ

思ったことなどです

おれのものはおれのもの

自分のこともままならないような人が「親だけは悲しませたくない」とか「親が安心するように◯◯しなきゃ」と言っているの見ると、そうやって言っている間だけ立っていられるんだろうなと思う。

親の心配事に言及することで一番助かってるのが実は自分って構造ができているような気がする。そこまでいけるなら心配事をキャッチする能力は壊れてないんだから、もうちょっと考えて自分を助けてみれば何か好転するかもしれないのに。

 

でもなかなかできないよなあ。自分で自分を助けることは、現実を直視することだから、自分の責任で歩を進めることだから、難しいだろうな。

 

僕は同情してるんじゃなくて、挑発してるんだぞ。

 

自分の心配をすることは一番怖いことで、親や友達、恋人の心配をしてる間はそれを忘れられるよな。他人の心配はどこまでいっても、どんな結末になっても、その責任や損害や苦悩が自分に降りかかることはないから、安心して心配してやることで、自分の存在意義をいつまでも確認していられるよな。実際はほとんどなんの役に立ってもいないけど、それでも心配してるだけで、なんもしてないよりは気がまぎれるもんな。

 

ごく当たり前のことを改めて言うけれど、自分の人生の責任を負うのは自分だけだし、他人の苦悩を代わりに味わうなんてことは誰にもできない。

誰も自分の代わりに人生を進めてはくれないし、いくら他人の心配をしたところで本人が背負う苦悩の量そのものは減らない。これは心配する側になってもされる側になっても言えることだと思う。

 

やらない善よりやる偽善、という言葉がある。たしかに、偽善はゼロより0.1でも仕事量が有るのかもしれないけれど、そんな限りなくゼロに近いような仕事をして満足する前に、自分自身のための仕事をしたほうが結果的にみんなの役に立つみたいなことが、世の中にはたくさんある気がする。

 

見せかけだけの、ポーズをとることに酔った、苦悩の肩代わりを、優しさと呼んで称えるな。