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思ったことなどです

「お金がたくさん稼げる職業がいいです!」

「お金がたくさん稼げる職業がいいです!」


先日、大学受験を目前に控えた高校生と話しました。彼は、高校生のうちから就職を見据えて大学を選んでいるようでした。

「お金がたくさん稼げる仕事がいいです。業界はとくに決めていませんが、とにかく大手の稼げる部署でバリバリ働きたいです」

彼は金がたくさんほしい人でした。どうしてたくさん稼ぎたいの?と聞くと、

「だって、お金がたくさんあればなんでも買えるじゃないですか」

なんでもって何を買うの?

「さぁ。それはまだ決めていません。でもお金があれば、買う物が何に決まっても困りませんよね」

なるほど。大学に入ったらなんかやりたいこととかあるの?

「まず人脈作りでしょ、それとバンドもやってみたい。旅サークルも興味あるなぁ、あ、飲みサーって実際楽しいんですかね??」

話を聞きながら僕は、この人は、本当はお金が欲しくてたまらないというわけじゃないんだろうなと思いました。



お金は、市場にあるものであれば何とでも交換できるという特性を持っています。お金さえあれば大抵のものは買えるという意見について、僕も間違ってないと思います。愛も命も買えると思っています。

お金は、交換という方法で何にでも姿を変えます。何にでもなるので、とりあえずお金を手に入れる段階においては、僕たちはその使い道を決める必要がありません。お金をどう使うのか、稼いだ段階ではまだ決めなくて良いのです。判断を保留されるということです。これが、なかなか見えづらいお金の魔力であると僕は思います。



さて、高校生の彼の話。
これからくる大学生活、就職活動について語る彼は、これからきっと色々なものに興味を持って、将来自分は何にでもなる可能性があって、何でもする可能性があって、世のあらゆる品物について、これから欲しがる可能性があるようでした。こう書くとずいぶんと欲張りであり、また優柔不断であるようにも思えますが、これがいわゆる”将来への希望に満ちている”という状態なのだと思います。

そんな彼にとってお金は、とても都合の良い性質を持っていました。
そう、判断の保留です。彼はこれからどういう風にもなる可能性があるのですから、あらゆる判断は全てが決まってからにしたい。そんなとき、お金は最適です。お金は、使うその時まで彼の判断を保留してくれるので、”可能性に満ちている”彼は、とりあえず、お金をたくさん稼げる職業を、当面の、自分が何なのかを見極めるまでの”仮の”目標としたのではないでしょうか。

彼は、お金が欲しくて稼げる職業を志望しているわけではありません。幅広い範囲において判断の保留が許される選択肢としてこれを選んだのだと思います。将来の”可能性に満ちた”彼の選択肢として、これはなかなかに合理的であると思います。


高校生の彼と同じようなことを言う人が、大学4年生や社会人の人達の中にも結構います。
この人達は高校生とちがって、着実に可能性の賞味期限を消費しながらある程度のところまで歩いてこられた方々です。そんな彼らの言う「なんでも手に入れたいからお金をたくさん稼ぎたい」は、かなり危険なニオイがします。この人達、そろそろ自分がなにかしらの者なんだと気付いているであろうはずなのに、未だに判断の保留を求めるのです。

心理発達的なモラトリアムの延長とも呼べるかもしれません。表向きは社会人の階段を上っているように見えて、その実、社会人という仮面の内側の自分はまだ、これから何者になる可能性があり、未だ情熱があふれるほど好きな物に出会わず、かつそれがこれから現れるような気がしており、そのため判断の保留を求め続けているのです。いつまでも”仮の”目標として、何にでも対応が利くお金を求めるのです。

僕はこれが悪いことだとは思いません。実際お金はたくさんあると便利ですから。

ただし、お金をたくさん稼ぐ理由が、未来のあるかもしれない自分のぼやっとした可能性への保険のためである限り、彼らは永遠に夢見がちな少年であると思います。自分はまだ何にでもなる可能性がある、まだどういう人生にでもしていく可能性があるのだから、お金がたくさんあれば困らない。というぼやっとした未来への憧れに目を奪われて、足元のおぼつかない少年少女たちであると思います。