かへでぱへ

思ったことなどです

見た目がとてもきれいな人

見た目がとてもきれいな人と話をした。見た目がきれいな人ではなくて、見た目がとてもきれいな人と話した。

 

見た目がとてもきれいな人は、すんでいる世界が僕とは違うようだった。見た目がとてもきれいな人の世界に出てくる人たちは、僕の世界に出てくる人たちよりも、積極的に親切な行いをする人が多いようだった。 「すごく優しい人たちなんだね」というと、「本当に良くしてもらって、助かっています」という。僕もまわりの人に良くしてもらいたい。

 

見た目がとてもきれいな人の毎日には、華やかで、刺激のあるものがたくさんあった。いったいどうやったら、六本木のオシャレなバーでアルバイトをすることができるのだろう。僕には見当もつかなかった。パーティーとかイベントってそんなに頻繁に招待とかされるものなのか。僕には想像もつかなかった。

 

見た目がとてもきれいな人の世界は、1日が28時間くらいあるように感じた。芸術鑑賞も大学の勉強も作品制作もサークルもバイトも趣味も、こんなに別々のことをやって1日が24時間なわけがない。毎日12時間ちかく寝ている僕には到底理解できなかった。

 

見た目がとてもきれいな人の世界に触れたとたん、僕の生活のなにもかもが色あせたものに感じられた。なまぐさい生活感を凝縮したような僕の顔、服装、下宿の部屋、食事、生活。ああもう、どれも話す気がしない。あんなに華やかな話を聴いたあとで、こんなにしなびた自分の日常のなにを話せというのか。それでもなにか話そうと、無味乾燥な日常に精一杯のおめかしをして、ウケそうな話題をなんとか絞り出してみる。見た目がとてもきれいな人は、大きな目をこちらに向けながら、「ええ!」「そうなの!?」と笑顔であいづちをうった。なんとか会話に花を咲かせ、ようやくのオチをつけたところで、ホッと安心しながら、虚しくなった。見た目がとてもきれいな人には弱点がないのか。あんなに華やかで刺激的で、いろんな人が気にかけてくれるような世界にいながら、生活感や孤独感のあふれる地味な世界でボケッと平面的に生きている僕の話に、くすくすと感じ良く笑うようなところをみて、本当に切なくなった。見えている世界が違う彼女に、この虚しさや切なさを説明しても、この感じを分かってもらうことはできないだろうと思った。こんな人が存在している世界で、僕はいったいなにをしているんだろう。

「お金がたくさん稼げる職業がいいです!」

「お金がたくさん稼げる職業がいいです!」


先日、大学受験を目前に控えた高校生と話しました。彼は、高校生のうちから就職を見据えて大学を選んでいるようでした。

「お金がたくさん稼げる仕事がいいです。業界はとくに決めていませんが、とにかく大手の稼げる部署でバリバリ働きたいです」

彼は金がたくさんほしい人でした。どうしてたくさん稼ぎたいの?と聞くと、

「だって、お金がたくさんあればなんでも買えるじゃないですか」

なんでもって何を買うの?

「さぁ。それはまだ決めていません。でもお金があれば、買う物が何に決まっても困りませんよね」

なるほど。大学に入ったらなんかやりたいこととかあるの?

「まず人脈作りでしょ、それとバンドもやってみたい。旅サークルも興味あるなぁ、あ、飲みサーって実際楽しいんですかね??」

話を聞きながら僕は、この人は、本当はお金が欲しくてたまらないというわけじゃないんだろうなと思いました。



お金は、市場にあるものであれば何とでも交換できるという特性を持っています。お金さえあれば大抵のものは買えるという意見について、僕も間違ってないと思います。愛も命も買えると思っています。

お金は、交換という方法で何にでも姿を変えます。何にでもなるので、とりあえずお金を手に入れる段階においては、僕たちはその使い道を決める必要がありません。お金をどう使うのか、稼いだ段階ではまだ決めなくて良いのです。判断を保留されるということです。これが、なかなか見えづらいお金の魔力であると僕は思います。



さて、高校生の彼の話。
これからくる大学生活、就職活動について語る彼は、これからきっと色々なものに興味を持って、将来自分は何にでもなる可能性があって、何でもする可能性があって、世のあらゆる品物について、これから欲しがる可能性があるようでした。こう書くとずいぶんと欲張りであり、また優柔不断であるようにも思えますが、これがいわゆる”将来への希望に満ちている”という状態なのだと思います。

そんな彼にとってお金は、とても都合の良い性質を持っていました。
そう、判断の保留です。彼はこれからどういう風にもなる可能性があるのですから、あらゆる判断は全てが決まってからにしたい。そんなとき、お金は最適です。お金は、使うその時まで彼の判断を保留してくれるので、”可能性に満ちている”彼は、とりあえず、お金をたくさん稼げる職業を、当面の、自分が何なのかを見極めるまでの”仮の”目標としたのではないでしょうか。

彼は、お金が欲しくて稼げる職業を志望しているわけではありません。幅広い範囲において判断の保留が許される選択肢としてこれを選んだのだと思います。将来の”可能性に満ちた”彼の選択肢として、これはなかなかに合理的であると思います。


高校生の彼と同じようなことを言う人が、大学4年生や社会人の人達の中にも結構います。
この人達は高校生とちがって、着実に可能性の賞味期限を消費しながらある程度のところまで歩いてこられた方々です。そんな彼らの言う「なんでも手に入れたいからお金をたくさん稼ぎたい」は、かなり危険なニオイがします。この人達、そろそろ自分がなにかしらの者なんだと気付いているであろうはずなのに、未だに判断の保留を求めるのです。

心理発達的なモラトリアムの延長とも呼べるかもしれません。表向きは社会人の階段を上っているように見えて、その実、社会人という仮面の内側の自分はまだ、これから何者になる可能性があり、未だ情熱があふれるほど好きな物に出会わず、かつそれがこれから現れるような気がしており、そのため判断の保留を求め続けているのです。いつまでも”仮の”目標として、何にでも対応が利くお金を求めるのです。

僕はこれが悪いことだとは思いません。実際お金はたくさんあると便利ですから。

ただし、お金をたくさん稼ぐ理由が、未来のあるかもしれない自分のぼやっとした可能性への保険のためである限り、彼らは永遠に夢見がちな少年であると思います。自分はまだ何にでもなる可能性がある、まだどういう人生にでもしていく可能性があるのだから、お金がたくさんあれば困らない。というぼやっとした未来への憧れに目を奪われて、足元のおぼつかない少年少女たちであると思います。

料理ができる(イケメンの)男

「え?○○くん料理できるの??すごーい!」

 

えー、料理男子なんて言葉がありましたけどね。これもう死語って感じがしますね。ひと昔前までは料理する男子なんて本当にチヤホヤされたもんです。趣味は料理なんて言ったらね、おおおっと場が盛り上がったんです。得意料理はパスタなんて言ったらね、そりゃもうモテたもんです。僕もモテたくて包丁握ったクチです。食べた事無いのにカルボナーラから勉強したクチです。

でも今現在、男性が料理するのって結構当たり前になってきましたよね。どれだけものぐさな男性でもレンジでパスタ茹でるくらいはできるし、レシピがそこかしこに転がっているせいで小学生でもパラパラのチャーハンが作れるんじゃないかって感じです。

今はもう誰でも当たり前に料理ができるんですよ。料理をする事は長所じゃなく、「当たり前」の技能になりつつあるんです。

そうなると「料理ができます」の意味だって変わってきます。少し前なら、男性は焼きそば野菜炒めチャーハンが作れるならそう宣言できました。でも今は違います。「料理ができます」と宣言した時、相手の頭の中にぽわわ~~んと浮かぶのは焼きそばや野菜炒めやチャーハンではありません。そこに登場するのはイタリアンとか和食とか健康レシピとか、かなりレベルアップしたものです。フライパンになんでもぶち込んで焼肉のタレで味付けしてどんぶりに盛るようなものは、もう料理とは呼ばれなくなったのです。

男の料理の立役者的ポジションは、マヨネーズと焼肉のタレから、クレイジーソルトとオリーブ油に移行しました。最近ではこういうの使って男性が料理したりするのを男子ごはんとか呼ぶらしいです。なんかメチャメチャモテたさそうな名前……。

さらに言えば、料理をする事が当たり前の技能になった今、普通の料理なら誰でも出来る事なんだから、どうせなら顔がカッコイイ男性の料理の方が美味しそうだという話も出てきます。誰でも出来る技能にたいして価値はありません。そうなると必然的に料理という行為自体ではなく、その行為者の質によってはじめてプラス得点が加算されるという事になります。これは僕みたいにモテたくて料理を始めたタイプの男性には大きな痛手となります。素人に毛が生えたレベルの料理テクを披露しても、そんなの誰でも出来るし、さらに顔がきもちわるい人間が作ったとなると料理自体にマイナス点がつきかねません。料理に罪はないのに。これは我々「顔がよくない料理男子」にとって死活問題です。

 

テレビでオリーブオイルを撒き散らす"彼"を眺めながら、そんなことを考えました。

いいねの奴隷がトイカメラ風に加工した写真をSNSにアップするうちにその手元で刻一刻と冷めていくカプチーノの気持ち

お店でものを食べる時、出てきた料理をパシャパシャと写真で撮る行為。これは傍から見ると大変卑しい行為として映ります。

 

僕は料理をパシャパシャする派の人間なんですけど、それでも飲食店でパシャパシャしている人を見ると「ウワァ僕もあんな感じなんだなぁ…なんだか卑しいなぁ…」と思います。この記事を読んでいるみなさんも、実は結構なパシャリストだったりするんじゃないですか。

最近はこの行為もだいぶ一般的なものになってきたような気がしますけど、それでもやはり多人数でひとつのものをつつく時など、誰かが「あ、ちょっと待って写真撮るから」とか言うと、食卓の空気がピリッとするのを感じます。このピリピリ感には、「早く食べたい」だとか「冷めてしまう」とかいう気持ちよりも、やはりその行為からにおい立つ"卑しさ"への嫌悪感が、集団内にじんわりと共有された結果であると思います。「いいじゃん撮らなくて…」と周りの人が苦い顔をしても、僕たちパシャリストは撮影をやめることができません。

 

なぜ料理を撮影してしまうか。

それはね、いいねが欲しいんです。

僕たちパシャリストは、同時にいいねの奴隷でもある場合が多いです。撮った写真をSNSにアップする人たちのほとんどはいいねが欲しいんだと考えていいと思います。普通に美味しい料理を食べて満足するのに加えて、パシャリストはさらに、美味しそうな料理の写真に付くいいねからも満足感を得る事ができます。では美味しい料理を食べにきた時、パシャリストはどうするか。彼らはまず美味しそうな料理の撮影をして、それから美味しく料理を頂くのです。これはとても合理的な行為です。一品の料理から最大限の満足感を搾り取る方法です。空腹は最高の調味料なんて言いますが、パシャリストにとっては食べながら眺めるスマホ画面のいいね通知も最高の調味料に成り得るのです。

だからね、さっき書いたように、周りの人たちが苦い顔をしても僕らは撮影をやめられないのです。だって撮影しないだけで、その料理から得られる満足感を取りこぼしちゃう事になるんですから。

 

でもよく考えてみて。インスタグラムのアプリをインストールする前の自分、スマホにする前の自分の外食は、そこまで満足感が低かったっけな?

"ネットちやほや"は人を狂わせる

昨日このブログを開設して、はじめての記事をアップしました。twitterと連携して1万人のフォロワーにむけて記事のリンクを拡散したら、ブログのアクセス数がダダダダダダッと上昇しまして、20分後には200を越えました。

僕はすぐに舞い上がりました。自分の記事がいろんな人から見られているという事で、えもいわれぬ高揚感がありました。いつもの僕のパッとしない日常生活では決して出会う事のないドキドキが、どんどん大きくなっていきました。twitterで自分のツイートが爆発的に伸びていく時のあの感じに似ていました。

昨日の記事に関して言えば、たいして内容があるものをアップしたわけではありません。ただ、日高サンというtwitterアカウントの中の人がブログをはじめて、そのお披露目兼ごあいさつをしたというだけの話です。だからね、僕は別に、気分が高揚して気持ち良くなるほどのすごい事を成し遂げたわけじゃないんです。ちょっと簡単な事をしただけで、アクセス数が上昇し、はてなのトップに載ったり、コメントがついたり、twitterの人たちから「楽しみにしてます!」とか「ぜったい読みます!」とか言われました。ネットでちやほやされた僕は、普段ちやほやされていない事もあって、なんだかとても嬉しくなりました。恐るべし、ネットちやほや。

 

これは"ネットちやほや"においてとくに言える事だと思うのですが、ここでは努力とちやほやが比例しないんです。パッとしない人でも簡単にちやほやされる事ができるんです。もっと言えば、パッとしなければパッとしない人ほど、現実世界では自分に向かないちやほやへの執着が強く、それを簡単に満たしてくれるネットちやほやの泥沼にハマっていくんです。このソースは僕なんですが、他にもネット上にあふれる太ももや鎖骨だけをうつした写真とか、恋愛ポエムおじさんの謎の自撮りとか、全然つまらない人が顔出して喋ってる意味不明なニコ生ツイキャスyoutubeとか、こういうところにもネットちやほやによって狂ってしまった人々が散見されます。

いくらネットでちやほやされても、僕たちの身体は現実の世界にあります。食べて寝てセックスをする生身の身体は現実にしか無いんです。ネットちやほやは所詮、脳味噌の一部を気持ちよくするだけなんです。しかしやはり、どうしようもなく魅力の無い人にでも少ない努力でたくさんの快感を与えてくれるネットちやほやの魔力というのは強いようです。 

 

ネットちやほやの快感は、しばしば生身の身体の存在を忘れさせます。ネット上の自我というのは漫画やゲームのキャラクター設定のように、求めるまま限りなく広がります。ネットちやほやに支配された人間は、ちやほやの獲得だけに動機づけられて動くようになります。すると彼らは、ちやほやを得るため自身をコンテンツ化させ、"空洞化した"自身のネットキャラクターを無限に拡大させていきます。程度の差はあれ、そういう人をみなさんも見た事あると思います。自分がそうだという方もいらっしゃると思います。僕もそうです。現実世界の生身の自分と、空洞化した自分のネットキャラクターとの人格的な乖離はものすごいものだと実感しています。同時に、これはきっといかんものだろうなと直感しています。

 

だからもうこんな承認獲得ゲームはやめませんかと。スマホを窓から投げ捨てて黙々と筋トレでもしませんかと。それでいいじゃないですか。努力もせずに他人からタダ同然でもらったちやほやなんかに振り回されるのはもうやめましょうよ。いいじゃないですか、もう。黙々と筋トレして、努力の末に割れた自分の腹筋を鏡で見て、それでニコニコしましょうよ。ね。

 

@各位  気を確かに

ブログをはじめました

ブログをはじめました。以前にも一度、ブログやろうと思って開設したことはあるのですけど、やっぱtwitterの方がお手軽で、考えなくていいのもあって、記事を書く事はありませんでした。

 

なので今回が、中学生の頃にやっていたホムペ以来はじめての記事投稿となります。ここ数年twitterばかりやっていた僕の脳は現在完全に溶けているようで、まとまった文章を書くというのはまだかなりハードルが高いです。リハビリも兼ねてぼちぼちやっていこうと思います。

 

ブログをはじめた動機は、なんかこれがきっかけでオイシイ事が起きたらいいなと思ったんです。僕の記事を読んだ人と思わぬ所からつながりができたりして、その結果あわよくばなんかオイシイ事が起きたらいいなと思ったんです。例えば、ブログで「お金がないのでお米ください」ってSOS出せば、本当にヤバい時とか誰かに助けてもらえるんじゃないかなって考えたのがこのブログ開設の最初の理由です。

 

やっぱりツイートとかだと文章に内容も無いし、情報がすぐに流れちゃうでしょ。だからまぁ僕の記事に内容があるかどうかは置いといて、とりあえずはまとまった文章をここに投稿して、色んな人に見てもらったり、僕が後で見返したり、そんな風な使い方もしたいなと思っています。

 

こういう事をした経験があまりないので、更新ペースとか、記事の組み立て方とか、わからないことばかりなんですけど、自分の好きなように自由に書いていけたらなと思います。よかったらまた見に来てね。